逮捕そして脱獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 05:31 UTC 版)
1832年6月にはイェーガン率いる集団が、カニング川流域のケルムスコット(en)で小麦畑で種まきをしていた二人の作業者を襲撃した。ひとりは逃げ出したが、もうひとりのウィリアム・ゲイズは槍を受けて負傷し、後に死亡した。イェーガンはアウトローとみなされ、彼の捕縛には20UKポンドの賞金がかけられた。巧みに逮捕から逃れていたイェーガンだったが、10月には漁師のグループが彼と仲間2人を巧みにボートまで誘いこみ、水深の深いところへボートを押しやって、彼らを捕まえることに成功した。イェーガンら三人のヌンガーたちはパースの衛兵所、次いでフリーマントルのラウンドハウス (en) 収容所に身柄を移された。イェーガンには死刑の宣告が下されたが、移民者のひとりロバート・リオンが彼の弁護を買って出た。リオンは、イェーガンらからすれば当地の植民地化は侵略行為に等しく、彼らの行動はいわば抗戦行為であると主張した。そして、捕縛された彼は、犯罪者ではなく戦時の捕虜相当にあつかうべしとの意見を述べた。ジョン・セプチマス・ロウ(en)の勧告を受けた州知事の判断のもと、イェーガンたちはリオンと二人の兵士が監視する中、カーナック島(en)への追放処分となった。 リオンには、イェーガンに文明とキリスト教を教え込み、ひいてはヌンガー族そのものを白人社会の枠内に引き込もうという思惑があった。そのためにリオンはイェーガンから彼らの言語や習慣について聞き出すことに多くの時間を割いた。しかし、リオンの目論見はすぐに潰えてしまう。翌月、イェーガンたちは放置されたディンギーを盗み、秘かにカーナック島を脱出して本土のウッドマン岬 (en) に逃れた。だが政府は、処罰は充分に行われたものとみなし、彼らを再び捕らえようとする試みを行われなかった。
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