ギリシア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 06:58 UTC 版)
アラリックは東ローマ帝国に最初の攻撃を加えた。コンスタンティノープル周辺に進軍したが、包囲は不可能だと悟り、西に反転した後ギリシアのテッサリア地方を南進して、要害テルモピュライをなんの抵抗もなしに通過した。東ローマ帝国軍は小アジアとシリアにおけるフン族侵入にかかりっきりになっていた。ルフィーヌス(英語版)はアラリックと交渉しようと試みるが、コンスタンティノープルからゴート族と取引しているのではないかと疑いをかけられただけであった。そのとき、スティリコはアッティラに向かって東進していた。クラウディアヌスによれば、スティリコはからイリュリクムから出陣するようアルカディウス帝に命じられ、ゴート族討伐の任を受けることになった。その後すぐに、ルフィーヌスは自分の部下によって殺されてしまう。コンスタンティノープルにおける実権は、宦官で財務官のユートロピウスに移った。 ルフィーヌスが暗殺された事件とスティリコによる討伐部隊の出陣はアラリックを追いつめ、アラリックは破壊的行動に訴えざるを得ない状況に陥る。アラリックはアッティカ地方を荒らし、ポキアとボエオティアの沃野がゴート軍に蹂躙され、住民も家畜も虐殺されて多くの女性たちが戦利品として略奪を受けた。しかし、行軍を急ぐアラリックはテーバイを素通りし、アテネと港町ピレウスを占領した際は、金品の供出する代わりに安全を約束する協定を双方が遵守して、都市とその住民に対しては危害を加えなかった。しかし396年に入ると、アッティカ地方に残るギリシア神話の豊穣の女神デメテルを祭るエレウシスの密儀の最後の痕跡を消し去り、青銅器時代以来受けつがれた古代ギリシア人の宗教儀礼の伝統を歴史の闇へと葬った。また、ペロポネソス半島へと進軍して、コリント、アルゴス、スパルタといった歴史的に有名な都市を次々と占領し、住民の多くを奴隷として売り払って多くの都市を荒廃させていった。 しかし、ここにきてアラリックの勝利の機運は深刻な逆境に陥る。397年、スティリコはギリシアに向かって渡海し、半島内のアルカディア地方とエリス地方の境界に位置するフォロイの山にゴート族をおびき出すことに成功する。ゴート族はスティリコ軍の包囲により、深刻な飢餓に陥り壊滅は必死の状況にあった。しかし、アラリックは、油断した敵軍の包囲の隙を見てこの難局を脱している。敵に脱出を許したこの一件は、軍が勝利を過信して浮かれ騒いで軍務を放棄し、遊興して敵に隙を与えたというのが実態であったが、スティリコが再び任務を得るためにアラリックを生かしておこうと考えたスティリコの故意によるものという疑いがかけられた。さらにスティリコは東ローマ皇帝に退却を指示されたため、アラリックとスティリコの戦いは終わった。こののち西ゴート族は、エピルス(現在のアルバニア)、さらにはイリュリクムにまで進んでいた。アラリックの略奪と破壊は、かねてから嘱望していた官職、帝国の軍営から兵員を補充する権威はもちろん、ローマ軍の指揮権を任されたイリリュクム総司令官職を提示されるまでこの間も続けられた。アルカディウス帝がアラリックをイリュリクム総司令官としたのは、西ローマ帝国への牽制としてであった。アラリックの「反乱」に対する対処を誤ったことが、東ローマ帝国に甚大な被害を生じさせたのである。
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