ギリシア化、カルタゴ化(紀元前460年-紀元前278年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 13:53 UTC 版)
「エリュクス (古代都市)」の記事における「ギリシア化、カルタゴ化(紀元前460年-紀元前278年)」の解説
エリュクスがギリシアの植民都市となったことはないが、他のシケリアの都市と同様に徐々にギリシア化していった。しかしながらトゥキディデス(紀元前460年-紀元前395年)は、エリュクスやセゲスタの住民であったエリミ人を、依然として「野蛮人(異言族)」と記述している。それ以前のエリュクスの歴史は不明であるが、おそらくはより強力なエリミ人都市であるセゲスタに従っており、アテナイのシケリア遠征(紀元前415年-紀元前413年)の失敗後はカルタゴの従属的同盟都市となった。紀元前406年にはエリュクスの沖合いでカルタゴとシュラクサイの海戦が行われ、シュラクサイが勝利している。紀元前397年にシュラクサイのディオニュシオス1世がシケリア西部への大遠征を開始すると、モティア包囲戦の直前にディオニュシス軍に加わった。モティアは陥落したものの、翌年にはカルタゴがヒミルコ率いる大軍を派遣してモティアを奪回し、エリュクスもカルタゴ側に戻った。ディオニュシオスは死の直前にもシケリア西部に遠征し、一時的にエリュクスを支配しているが、直ちにカルタゴが奪回し、エピロス王ピュロスの遠征(紀元前278年)までカルタゴ支配が続いたと思われる。そのとき、エリュクスには自軍の兵だけでなくカルタゴから強力な援軍が派遣されており、地形的な有利さも手伝ってピュロスに大いに抵抗した。しかし、ピュロス自身が攻撃部隊を率いて突撃し、ヘーラクレースの子孫を自負する自己の能力を見せ、エリュクスを陥落させた。
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