小アジアとシリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 07:58 UTC 版)
プトレマイオス1世はシリアの侵攻を目指したが、デメトリオス1世が戦いに勝利し、アンティゴノス1世もシリアに軍を進めた。そのため、わずか1か月後、プトレマイオス1世はシリアから軍を引き揚げた。 セレウコス1世の脅威に対抗して、アンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世以外の全ての敵と和平を結ぶことを決断した。全てのディアドコイは、現在の国境線とギリシアの街の自由を確認した。また、プトレマイオス1世とリュシマコスは、それぞれエジプトとトラキアのサトラップであると確認され、アンティゴノス1世とカッサンドロスはアジアとヨーロッパの軍隊の司令官であると確認された。アンティゴノスは摂政の位を退位し、アジア全体の将軍職、小アジアを含みダーダネルス海峡からユーフラテス川までの地域の支配者となった。 全ての陣営によって、アレクサンドロス3世の息子のアレクサンドロス4世が6歳になった時に、帝国全体の王になることが合意された。 ディアドコイの間の和平の合意はすぐに破られた。アンティゴノスによってギリシアの自由な街に守備隊が配置されたのを口実に、プトレマイオスとカッサンドロスは、彼に対して改めて敵意を抱いた。
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