小アジアのイオニア式
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 03:23 UTC 版)
「ギリシア建築」の記事における「小アジアのイオニア式」の解説
ギリシア建築の伝統は、主にペロポネソス半島と南イタリアを発祥とするドーリア式と、小アジア一帯を発祥するイオニア式に分けることができる。イオニア式は小アジアにギリシア人が入植した紀元前12世紀頃まで遡ると考えられているが、紀元前6世紀に小アジアで建設された2つの巨大神殿、エフェソスのアルテミス旧神殿、そしてサモス島のヘーラー神殿(第III神殿)が、その意匠の確立に大きな影響を及ぼした。これらの神殿は現存しておらず、発掘された遺構から神殿の形態を推測するほかないが、どちらも二重周柱式神殿(ディプテラル)で、よく似た構成をしていたことは確実である。ウィトルウィウスとプリニウスによれば、ヘーラー神殿は建築家ロイコスとテオドロスが、アルテミス神殿はクレタのケルシフロンとその息子メタゲネスが設計を行ったが、アルテミス神殿については、ヘーラー神殿を計画したテオドロスも参画していたらしく、これが両神殿に共通性をもたらしたようである。 女神ヘーラーの生誕の地とされるサモス島のヘーラー神域(ヘライオン)の起源は古く、最初の第I神殿(通称ヘカトンペイドン(百尺神殿)、長辺60m・短辺30m)は紀元前8世紀初期に建設された。その後、紀元前8世紀末に内陣を正面7本、側面8本の柱で囲む増築が成され、ギリシア世界の最初期の周柱式神殿となった。この神殿は紀元前660年頃に洪水によって破壊されたが、すぐに同一平面の第II神殿が建設されている。第III神殿は、紀元前570年から紀元前560年頃に建て替えられたもので、長辺104m・短辺52m、104本もの円柱によって内陣を2重に囲む巨大建築であった。柱の配置は内陣の柱の位置と完全に一致しており、神殿が秩序立てて構成されていることがよくわかる。 アルテミス神殿のある場所も由来は古く、パウサニアスによれば、この神域の起源はイオニア人入植よりも古いとされている。紀元前560年から紀元前550年頃に建設されたこの神殿は、ヘーラー神殿よりもひとまわり大きく、長辺114m・短辺54.6mである。平面構成はほとんど同じだが、装飾はヘーラー神殿よりも豪華で、正面の円柱の柱頭と柱脚にまで浮き彫りが施されていた。これにはリディア王クロイソスの銘が刻まれており、少なくともいくつかのものは彼の寄進によるものである。両神殿の影響はたいへん大きく、その後数百年の間、小アジア一帯の神殿の設計において繰り返し手本とされ続けた。 イオニア人は建築の装飾にたいへんな関心を示しており、イオニア式建築はギリシア本土にも徐々に伝達されていったが、最初はこのような美しい模様や彫り物が採用された。紀元前550年頃から紀元前525年にかけて建設されたデルポイのアポローン神域にある宝庫群は、ギリシア本土における初期のイオニア式建築であり、洗練された装飾をみることができる。クニドス人の宝庫とシフノス人の宝庫は二柱式神殿(ディスタイル・イン・アンティス)の形式であるが、正面の2本の円柱は女性像に置き換えられている。シフノス人の宝庫の壁体は小口と長手が交互に繰り返され、その上部には彫刻が施されたフリーズと菊紋が連続するアーキトレーヴが載っている。入り口は連続した玉飾り(ビード・アンド・リール)で装飾されており、この小建築物がいかに華美なものであったかが窺える。
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