小アジア遠征
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271年、パルミラの将軍セプティミウス・ザッバイが小アジア遠征に出た。ザブダスは、その年の春からこの遠征に合流した。パルミラ軍はガラティアを併合し、ゾシムスの記述によれば、アンキュラにまで達した。一方でビテュニアやキュジコスの造幣局はローマ帝国の支配下にとどまり、カルケドン攻撃も失敗に終わった。小アジア遠征に関する記録は乏しいが、少なくともその西側の地域がゼノビアの征服を免れたのは事実である。 271年8月、ザブダスはパルミラに帰還した。この頃が、パルミラ帝国の頂点であった。
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小アジア遠征
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カリア・サルディスの太守ティッサフェルネスがイオニアの諸ポリスに服属を要求したのに対し、ギリシアの覇権国であるスパルタが小アジアのギリシア人の保護を名目に紀元前400年に開始した小アジア戦役において、デルキュリダスはティブロン[要曖昧さ回避]の後任として小アジアに軍と共に送られ、ティッサフェルネス、ファルナバゾスといった小アジアの太守たちとの戦いに着手した(紀元前399年)。敵の各個撃破を狙ったデルキュリダスはひとまずティッサフェルネスと手を打ち、ファルナバゾスと戦うことを決めた。ファルナバゾスはティッサフェルネスとは不仲であったため、ファルナバゾスが困ってもティッサフェルネスの助けが入る可能性は低く、またファルナバゾスはデルキュリダスの因縁の敵でもあった。ファルナバゾスの治めるアイオリスへと進軍したデルキュリダスは一日でラリサ、ハマクシトス、コロナイ等の沿岸ポリスを落とし、ネアンドリア、イリオン、コキュリオンを味方に引き入れ、続いて彼は自身に従わなかったケブレンを包囲して降伏させ、そしてスケプシスとゲルギスを降伏させるといった破竹の快進撃をした。このように8日で9つのポリスを落としたデルキュリダスは、冬が近づいてきたために一まずファルナバゾスと休戦し、ビテュニアで越冬した。この時、トラキアのオドリュサイの王セウテスより歩兵300、騎兵200の援軍が来た。 翌紀元前398年の春、デルキュリダスはランプサコスへと向い、同地で翌年も軍の指揮を執るようにと本国からの視察から命を受けた。続いてケルソネソスの人々の要請を受けた彼はヨーロッパに渡ってトラキア人を追い払い、トラキア人に荒らされたケルソネソスの諸ポリスを再建して長城を築き、ケルソネソスからトラキア人を締め出した。再び小アジアへと戻った彼はアタルネウスを拠点に略奪を働くキオス人亡命者を討伐し、アタルネウスを食料基地とした。次いで、彼はエフェソス、次いでカリアへと向った。 一方、デルキュリダスの快進撃を目の当たりにしたティッサフェルネスとファルナバゾスは対デルキュリダスで手を結び、イオニアへと軍を進めた。彼らはデルキュリダスの軍と対陣するも、ギリシア軍へのかつての苦戦(クナクサの戦い)を思い出したティッサフェルネスは戦わずして和を求めた。その結果、小アジアのギリシア人ポリスの独立をペルシア王が承認する代わりにデルキュリダスと他のスパルタ人ハルモステスは小アジアから去ることが決定された。
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