小アジアにおける反乱の勃発と拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:20 UTC 版)
「スラヴ人トマス」の記事における「小アジアにおける反乱の勃発と拡大」の解説
フォイデラトイ(Foederati、盟朋軍)の師団長(トゥルマルケス)として、トマスはテマ・アナトリコイの首都アモリオンを拠点としていた。この地位はストラテゴス(strategos、軍事総督)の下僚であったが、トマスによる布告は小アジア全域で広範な支持を受けた。短期間のうちに全アジアのテマにトマスへの支持が広がり、ミカエル2世の側に立ったアジアのテマはミカエル2世の甥であるカタキュラス(Katakyulas)の支配下にあるテマ・オプシキオン(英語版)とストラテゴスのオルビアノス(Olbianos)の支配下にあるテマ・アルメニアコイ(英語版)のみであった。テマ・トラケシオイ(英語版)はどちらに着くか揺らいでいたが、最終的にはトマスの側に立った。アジアにいる帝国軍の3分の2以上がトマスの側に立ち、各地の税務官吏はトマスが最も必要とする税収を彼に提供した。 ミカエル2世の最初の対応はテマ・アルメニアコイの軍にトマスを攻撃するよう命じることであった。アルメニアコイの軍団は簡単に打ち破られ、トマスはテマ・アルメニアコイの東部を突き進み、国境地帯のカルディア[要リンク修正]を占領した。しかしトマスによるアルメニア地方の占領は不完全であった。これはアッバース朝がビザンツ帝国の内戦を好機として、陸海から小アジア南部を攻撃したためである。この地方にはトマスは僅かな軍勢しか残していなかった。トマスは攻撃された地域に戻るのではなく、821年春にアッバース朝の領土への侵攻作戦を立ち上げた。この攻撃対象はベリーや他の学者によればシリア、トレッドゴールドによればアラブ人の支配下にあったアルメニアの地方であった。トマスはその後、アッバース朝のカリフ、アル=マアムーンに使者を送った。アル=マアムーンはトマスが見せた軍事力に強い印象を受け、また特にアッバース朝自体が抱えているバーバク・ホッラムディン(英語版)が率いるホッラム教(英語版)の反乱のことも手伝って、トマスの提案を受け入れた。この結果トマスとマアムーンは平和条約と同盟を結んだ。マアムーンはアラブ人の支配地域でトマスが兵士を集めること、彼が撤退のために国境を通過すること、アラブの支配下にあるアンティオキアへの訪問(この地でトマスは聖像崇拝派のアンティオキア総主教(英語版)ヨブ(英語版)から戴冠を受けた)を許可した。この協定の正確な条件は史料上不明瞭であるが、これと引き換えにトマスはいずれかの領土を譲り渡すことと、カリフの属王となることを約束したと言われている。ほぼ同時期に、トマスは出自不詳の男を養子にし、彼をコンスタンティオスと名付けて共同皇帝とした。 一方のミカエル2世はエフェソス大主教(英語版)に親類を任命することによって聖像崇拝派の中に支持を確保することに挑戦したが、この計画はエフェソス大主教座が公然たる聖像破壊派のコンスタンティノープル総主教アントニオス1世カッシマテス(英語版)による聖別を拒否したため失敗した。また、地方の支持を固めるため、特にまだミカエル2世の側についていた2つのアジア側のテマの支持を繋ぎとめるために、ミカエル2世は821年から822年に25パーセントの減税を約束した。 テマ・オプシキオンとテマ・アルメニアコイは支配できていなかったが、821年夏までに、トマスは東方で足場を固めた。彼はその視線を究極的な目標であるコンスタンティノープルへと向けた。この都市を所有していることだけが皇帝としての完全なる合法性を担保した。トマスは軍と物資を集め、攻城兵器を組み立てた。帝都に駐留する強力な艦隊に対抗するため、テマ・キュビライオタイ(英語版)とテマ・アイガイウ・ペラグス(英語版)という「海のテマ」から得た自身の艦隊を強化すべく船を増産させた。この艦隊にはテマ・ヘラス(英語版)の部隊も含まれていたかもしれない。トマスは将軍のゲオルギオス・プテロトス(英語版)を呼び戻した。彼はレオン5世の甥であり、ミカエル2世によってスキュロス島に追放されていた人物である。トマスは彼に艦隊の指揮権を与えた。10月までに、トマスに従う諸テマの連合艦隊はレスボス島での編成を完了し、トマスの軍はテマ・トラケシオンからアビュドス(英語版)へ向けて進軍した。彼はそこからヨーロッパへと渡るつもりであった。 この時点で、これまで順調であったトマスの運命は逆転しつつあった。アビュドスに進発する前、彼は義理の息子コンスタンティオスに軍を預けてテマ・アルメニアコイへ送り出した。だが、コンスタンティオスはストラテゴスのオルビアノスに迎撃され、その軍隊は比較的軽微な損害で撤退できたものの、コンスタンティオス自身は殺害された。コンスタンティオスの切断された首はミカエル2世の下へ送られ、彼はそれをアビュドスにいるトマスに送り付けた。トマスはこの比較的小さな挫折にひるむことは無く、10月後半か11月前半のいずれかの時点でヨーロッパへと渡った。死んだコンスタンティオスの代わりに、すぐにまた別の出自不詳の人物が新しいトマスの共同皇帝として擁立された。この人物は元修道士であった。トマスは同じように彼を養子とし、名前をアナスタシオスとした。
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