小アジア戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 16:29 UTC 版)
「第一次ミトリダテス戦争」の記事における「小アジア戦役」の解説
紀元前88年に始まった戦争で、ローマは少数のローマ軍のほかに現地で徴収した兵力で大軍を組織した。軍を3つに分けて各々をルキウス・カッシウス、マニウス・アクィッリウス、キントゥス・オッピウスが率い、ニコメデス4世のビテュニア軍も加えて四方面に分かれてポントスとカッパドキアに向かった。 ミトリダテス6世は分進するローマ軍を各個撃破した。まずアムニアス川の戦いでニコメデス4世を迎撃し、国境を越えて逃げる敵を追って、マニウスが守るプロトパキウム要塞を7時間で攻略、カッシウスの軍も破った。ローマの敗将達とビュザンティオンにあった艦隊は離散し、ミトリダテス6世はビテュニア全域を支配した。ミトリダテス6世は捕虜に帰国の費用を与えて帰らせ、孤立して降伏したオッピウスを丁重に遇したが、マニウスは処刑した。 ミトリダテス6世はさらに進み、アシア属州などエーゲ海沿いの小アジア全域を手中にした。支配の確立後、ミトリダテス6世は新しい支配地域の全土で一斉にローマ人とイタリア人を皆殺しにする命令を出した。イタリア生まれの者は、男女の別なく子供も含めて殺された。この命令により殺された人数は8万人とも10万人以上とも言われる。 ミトリダテス6世は艦隊を率いて、ローマ側につくロドス島の攻略に向かった。しかし、陸兵を輸送する船団が嵐に見舞われ、ロドス海軍の巧みな抗戦にもあって、攻略は失敗した。
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