小アジアの平和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:16 UTC 版)
「グナエウス・マンリウス・ウルソ」の記事における「小アジアの平和」の解説
紀元前189年/188年の冬、ウルソは小アジアの幾つもの都市国家からの使節をエフェススに迎えた。彼らはウルソのガラティアに対する勝利と金の花冠の寄贈に感謝した。アンティオコス3世とカッパドキア王アリアラテス4世(en)も代表団を送った。アンティオコスはウルソに賠償金として2.500タレントを支払い、アリアラテスはアンティオコスを支援したことに対して許しを求めた。アリアラテスは600タレントを支払うこととなった(後にウルソが半額に減額した)。春になって、ウルソはその軍と共にパンフィリアに移動した。そこでアンティオコスの最後の拠点であったペルガ(en)からシリア兵を撤兵させた。 この頃には、ペルガモン王国のエウメネス2世とローマから派遣された10人の特別委員が小アジアに到着していた。これを知ると、ウルソも西部のアパメイアに戻り、アンティオコスとの講和条約の最終交渉に参加した(紀元前188年夏)。これは原則的にスキピオ兄弟が提案した素案を確認するものであった。アンティオコスは軍を小アジアから撤退させ、ほぼ全艦隊を廃棄し、戦象をローマに引渡し、莫大な賠償金(12年間で12,000タレント)を支払うこととなった。セレウコス朝の船はカリカドナ岬とサルペドン岬より西に入れなくなった。 紀元前188年の大部分を使って、ウルソはこの地域での新しい国境線の決定を行った。エウメネスはアンティオコスがヨーロッパ側に所有していた領土、ミュシア、フリギア、リュディアおよびイオニアに加えてカリア、リュキアおよびピシディアの一部を獲得した(結果ペルガモンは小アジア最強の国家となった)。ロドスはカリアとリュキアの一部を得た。
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