ギリシア世界における女神ローマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:26 UTC 版)
「ローマ (ローマ神話)」の記事における「ギリシア世界における女神ローマ」の解説
初期の女神ローマへの信仰は紀元前195年のスミルナで確立した。これはおそらくローマとの同盟によってアンティオコス3世と対抗できたことに起因する。Mellorはこの信仰をギリシアや東方の君主制の伝統とローマ共和政の慣習を結びつけるための宗教と政治をからめた外交政策の形態ではないかとしている。ローマ国家を神聖なものとして人格化することで、その官職や共和国や都市が神聖で永遠のものであると認めさせたのである。アテナイやロドス島は共和政の都市国家だったため、Demos(一般大衆)を人格化した伝統的信仰があり、女神ローマを受け入れやすかった。紀元前189年、デルポイとリュキアでは女神ローマの祭りが行われた。運動競技やヘレニズム文化全般の神聖なスポンサーとして女神ローマはすんなりと受け入れられ、祭りもよく行われるようになった。紀元前133年、アッタロス3世はペルガモンの人々と領土を女神ローマに(つまり共和政ローマに)遺贈した。これによりアジア属州ができ、そこでも女神ローマへの信仰が急速に広まった。 ヘレニズムにおける宗教では、男神には男性の神官、女神には女性の神官が仕えたが、女神ローマの神官は男性だった。これはおそらくローマの軍事力の力強さを認識していたためと思われる。女神ローマの神職は他の神々の神職の中でも高位とされた。 アマゾーンが起源と思われる女神ローマだが、ギリシアの硬貨に描かれるローマは、ギリシアの女神のような城壁冠やフリギア風のヘルメットを被っている。時には何も被っていない場合もある。その後ローマは、(「誓い」の守護神としての)ゼウスや(「相互信頼」を人格化した)フィデースと結び付けられるようになった。東方におけるローマ信仰は、ローマへの忠誠とローマによる庇護を求めるものだった。ローマ国家への敬意以外に女神ローマを信仰する理由は全くない。Melinno of Lesbos のものとされる女神ローマを称えるサッポー詩体の詩が残っている。共和政ローマ本体とギリシアより西の領域では、女神ローマへの信仰はほとんど見られない。 女神ローマの神殿の遺跡は地中海東部でも少ない。祭壇が4つ残っており、1体の意図的に切断された像が見つかっている。
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