毌丘倹の遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 07:44 UTC 版)
1906年、輯安北方で「毌丘倹紀功碑」が発見された。242年(魏の正始3年)の建立と見られ、高句麗征伐の功績を称えたものである。高句麗征伐については『三国志』と『三国史記』高句麗本紀とではその年次にズレがあったが、この発見によりどちらも間違いであることが判明した。 また、2005年3月5日、本籍地である山西省運城市聞喜県で、毌丘倹とその一族を祀った碑が発見された。碑には毌丘一族18名の姓名と、背面の下方に“難主毌丘儉”と刻まれていた。「難」とは、司馬師に敗死する難に遇ったことを意味する。両側には、建立主と見られる毌丘元顕、その子の毌丘世威、その子の毌丘孝忠、比丘(男僧)などの姓名が刻まれていた。『平陽府志』によると、毌丘元顕が399年頃に毌丘寺で修行をしており、碑はこの前後に建立されたと見られている。
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