毌丘倹の乱と諸葛誕の乱とは? わかりやすく解説

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毌丘倹の乱と諸葛誕の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 10:06 UTC 版)

文鴦」の記事における「毌丘倹の乱と諸葛誕の乱」の解説

幼い頃から、人並み外れた勇気と力を持っていた。 255年、父の文欽毌丘倹司馬師専横反発し寿春で乱を起こした文鴦は父に従って司馬師軍勢戦った司馬師汝陽駐屯して鄧艾を楽嘉に派遣した鄧艾魏軍が弱いと見せかけ文欽誘い出し司馬師大軍隠密に楽嘉へ移動させた。文欽が罠にかけられたことを知り引き返そうとしたが、文鴦は父に「まだ勝敗決していません。城に登って、鼓を打ち大声あげれば魏軍撃ち破れます」と言った文鴦は敵を攻め三度騒いだが、父が応じなかったため、退いて父とともに戦線を東に下げた司馬師文欽逃げたことを知ると、精兵でもって追撃開始させた。諸将達は「文欽古強者だし、子の文鴦若く気鋭です。軍を退いて城に籠っても、未だ損害被っていないなら、彼らが敗走することはありません」と言った。しかし司馬師は「一度鼓すれば士気生まれ二度目衰え三度目尽きる。文鴦三度鼓したのに、文欽応じなかった。その勢いは既に屈している。敗走しないなら何を待っているのだ」と追撃緩めなかった。文欽が更に逃げようとした時、文鴦は「司馬師先んずることができず、我が軍勢い折ってしまった。このまま退き下がることはできません」と言い、自らを含めた十数騎で魏の陣への急襲成功させた。この急襲の間に文欽は軍を退却させ、文鴦連れて共に呉へ亡命した毌丘倹・文欽の乱)。 その頃司馬師悪性の目の瘤を手術していた。術後、あまり経過しない内に帰陣しており、そこへ文鴦奇襲を受け無理をしたため片方目玉飛び出してしまったという。閏月病状悪化したため司馬昭呼び出し軍を委ね許昌にて死去した257年諸葛誕司馬昭に対して反乱を起こすと、呉の将軍として父と共に諸葛誕救援向かった戦局悪化すると、文欽諸葛誕が軍の指揮について対立し始め文欽諸葛誕殺された。この事を聞いた文鴦は、兵を指揮して諸葛誕元に駆けつけようとしたが、部下達誰もついて来なかったので文虎と共に司馬昭降伏した諸葛誕の乱)。軍吏たちが文鴦処刑すべきだと進言したが、司馬昭は今ここで文鴦処刑してしまうと誰も降伏してこなくなると懸念し、彼らを赦した。文鴦数百の兵を引き連れ城内の兵に対し文欽の子ですら許されたのだから、他の者は何の心配があろうか」と降伏呼びかけた。さらに文鴦将軍任じられ関内侯爵位授かったため、城内の兵は動揺した『三国志』諸葛誕伝)。寿春城が陥落すると、司馬昭文欽亡骸収容することを許した文鴦は、支給され車牛故郷まで亡骸運び埋葬した

※この「毌丘倹の乱と諸葛誕の乱」の解説は、「文鴦」の解説の一部です。
「毌丘倹の乱と諸葛誕の乱」を含む「文鴦」の記事については、「文鴦」の概要を参照ください。

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