応璩
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応 璩(應璩、おう きょ、190年 - 252年)は、三国時代の魏の官僚・文人。字は休璉。本貫は豫州汝南郡南頓県(現在の河南省周口市項城市)。祖父は応奉。父は応珣。伯父は応劭。兄は建安七子の一人の応瑒。子は応貞・応純・応秀。孫は応詹(応秀の子)。
略歴
応璩は、博学好文で知られ、書記を善くした。曹丕・曹叡のときには散騎常侍となり、曹芳が即位して暫くしてから、侍中・大将軍長史となった。時に曹爽が専断を行い、法に多く違反するようになると、応璩は、詩をもってそれを風刺したという。その詩は広く伝わり、文選にも、百一詩をはじめとした応璩の著作が撰録されている。後に侍中として復帰し、著作を司ったとある。劉知幾の『史通』古今正史篇には、魏の国史である『魏書』の編纂にも参画したと名前が残っている。
嘉平4年(252年)に没し、衛尉を追贈されている。
参考文献

ウィキソースに三国志/巻21の原文があります。

ウィキソースに史通/巻十二の原文があります。
魏志 (魏書) |
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蜀志 (蜀書) |
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呉志 (呉書) |
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