張越の乱とは? わかりやすく解説

張越の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:10 UTC 版)

張軌」の記事における「張越の乱」の解説

晋昌郡出身の張越は涼州豪族であり、元々は隴西内史勤めていた。ある時、張氏が涼州覇者となるという予言聞いた彼は、自らの才能をもってこれに応じようと考えようになった。やがて梁州刺史昇進したが、涼州統べる志を抱いていたので病だと称して職を辞し河西の地に戻った。さらに、密かに張軌追い出して自らが取って代わろう謀るようになった308年2月張軌中風患い日常会話支障を来すようになったので、子の張茂が州の事務代行するようになった。張越はこれに乗じて張軌失脚させ、まずは秦州刺史賈龕にその地位代えさせよう企んだ。兄の酒泉郡太守張鎮、尚書侍郎曹祛 と結託すると、まず密かに洛陽へ使者派遣し、曹祛を西平郡太守任じるよう請い輔車の勢(互いに呼応しあう事)を為そうとした。張軌別駕務めていた麹晁もまた権勢手中に収めたいと考えていたので、張越らの企み協力し関中を統治する南陽王司の下へ使者派遣し張軌不治の病であると称し、賈龕を後任とするよう訴えた。 この時、賈龕もまたこの企み乗ろう考えていたが、彼の兄は「張涼州張軌)は当代きっての名士であり、威名西州涼州)に轟いている。汝は何の徳があってこれに取って代わるというのか!」と叱責したので、考え改めてその地位辞退した。賈龕の辞退を受け、張鎮・曹祛は朝廷代わり涼州刺史派遣するよう上表した。さらにその返答が届く前に、張越は張鎮・曹祛・麹佩らを各地派遣して張軌廃する旨の檄文送り、さらに軍司耽に州の事務執り行なわせた。また、耽には朝廷上表させ、張越を涼州刺史任じるよう要請させた。 これらの事が張軌耳に入ると、彼は「我はこの州(涼州にあって8年にもなるが、地域安定させることが出来ていない。また、中州中原)は兵乱遭遇し、秦隴の地も危急の時を迎えている。加えて我の病状日に日に重くなっており、賢人職務譲って隠居することを真剣に考えていた。ただ、任務が重大であるために、すぐに遂げる事が出来なかった。図らずも諸人このような事変起こしたが、我の心が明らかになっていないようだ。我は貴州涼州)を離れる事を履物を脱ぐくらいにしか思っておらぬ!」と述べた。そして主簿尉髦を洛陽へ派遣して職を辞する旨を奉じさせると共に馬車準備して速やかに宜陽隠遁しようと考えた。だが、長史王融参軍孟暢は張鎮の送ってきた檄文踏みにじると、張軌居室押し入って「晋室で変事が相次ぎ、人も神霊塗炭の苦しみ味わっており、みな明公西夏中国西側)を撫寧することを頼みとしております。張鎮兄弟は凶逆を欲しいままにしており、その罪を明らかにして誅滅すべきです。彼らの志を成就させてはなりません」と諫めた。これを聞いた張軌黙り込んでしまい、王融らは退出する戒厳令敷いた。 ちょうどこの頃張軌長男張寔洛陽から帰ってきた張軌張寔を中督護に任じ、張鎮らの討伐に当たらせ。同時に張鎮の外甥である太府主簿令狐亜を張鎮の下へ派遣し、張鎮を説得させた。令狐亜は「舅(張鎮)はどうして安危をよく考え成敗明らかにしようとしないのですか。主公張軌)は西河涼州)において著しい徳があり、雲霞如く兵馬有し烈火さながら燃え滾っております江漢待って火を鎮めんと図っているようですが、却って洪水飲まれようとしております越地の人が来るのを期待しようとも、どうしてこの地にまで及びましょうか!今、数万大軍が既に近境まで迫っております今はただ老親の安全と一族保全考え誠心誠意に州府に帰順するのです。そうすれば必ずや万全の福を保てましょう」と諭した。これを聞いた張鎮は号泣して「奴らのせいで我は誤まったのだ!」と述べ、その罪を功曹連に帰して斬首すると、張寔の下へ赴いて謝罪した。 張越・曹祛は未だに張軌に従わなかったので、張寔は軍を率いて南進し、曹祛を攻撃してこれを敗走させた。 同時期、朝廷は張鎮らからの上表を受け取ると、侍中袁瑜を代わり涼州刺史任じる事とした。これを聞いた治中楊澹 は馬を馳せて10人を伴って長安至り自分の耳を切り落としての上に置き、張軌貶められていると司馬模訴えた司馬模はこの要請入れ受け、上表してこの人事を止めさせた。さらに武威郡太守張琠もまた子の張坦を速やかに洛陽詣でさせ、上表して「魏尚辺境安定させる召喚され、充国(趙充国)は忠を尽くすも貶められました。これらは全て前代歴史においても非難されるところであり、現在の教訓となるものです。順陽では劉陶後漢の時代順陽県長であった)を思慕し、宮門を守る者が千人にも及んだいいます刺史張軌)が臣の州(涼州)へ臨む様は、あたかも慈母赤子育てるが如しであり、百姓を臣愛する様は、あたかも枯れかけの)が恵みの雨迎えるが如しであります伏して聞きますに、流言信じて涼州刺史地位を)交代させようとしているといいいます。この噂に民心慌てふためいており、それは父母を失うかのようであります。今、戎夷胡人)が華夏乱している中で、一方搔き乱すべきではありません」と訴え張軌更迭思いとどまるよう請願した。さらに張坦は自らもまた洛陽へ出向くと、懐帝遂に詔を下して張軌慰労すると共に司馬模からの上表を全面的に信用し張軌に曹祛討伐命じた。 これを知った張軌大い喜び州内死罪以下に大赦下したまた、張寔に尹員・宋配初め歩騎3万余りを与え、曹祛の討伐命じた。さらに、従事田迥・王豊には800騎兵与え姑臧西南から石驢に出て長寧に拠らせた。曹祛は麹晁を黄阪に派遣して迎え撃たせたが、張寔密かに小道より浩亹出て破羌において曹祛を攻撃した。そして敵軍撃ち破ると、曹祛と牙門将田囂を斬り殺した。曹祛の討死聞いた張越は大い恐れて鄴へ逃走したので、涼州騒動鎮まった

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