張軌の時代とは? わかりやすく解説

張軌の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/16 21:46 UTC 版)

張寔 (前涼)」の記事における「張軌の時代」の解説

271年張軌長男として生まれる。学問への見識深く賢人敬って士を愛した。やがて秀才挙げられ郎中となり、後に驃騎将軍となった307年、職を辞して故郷涼州に戻ることを希望し朝廷認められて議郎に改任された。当時、父の張軌涼州治めていたが、張越・曹祛らが乱を起こして混乱最中にあった308年2月頃、張寔涼州の治所である姑臧到着すると、父により中督護に任じられすぐさま乱の鎮圧命じられた。張寔は軍を率いて南進すると、曹祛を攻撃して敗走させた。 その後、再び曹祛攻撃命じられると、尹員・宋配初め歩騎3万余りを率いて軍を進めた。曹祛は麹晁を黄阪に派遣し張寔大軍対峙させた。張寔密かに小道から浩亹出て破羌進んで曹祛と交戦した。そして、牙門将の田囂を斬り殺すと、勢いのままに曹祛を討ち取った。張越は大い恐れて逃走し涼州騒動鎮まった功績により、建武亭侯に封じられた。しばらくして西中郎将となり、爵位福禄県侯に進んだ312年9月西平出身の王淑と曹祛の残党である麹儒らは元福禄県令麹恪を脅して盟主推戴すると、晋朝反旗を翻した。彼らは西平郡太守趙彝を捕らえると、朝廷背いていた秦州刺史らと呼応した張寔は彼らの討伐赴くと、麹儒らを撃破し誅殺し、主犯格であった六百余り移住させた。治中令狐瀏は「悪人一掃するには、農夫刈り取るように、二度と再生しないよう草根から除かねばなりません。今すぐに反乱者の家を退去させ、後顧の憂い絶つべきです」と進言したが、張寔受け入れなかった。その後、麹儒の残党らは令狐瀏の懸念した通り乱を起こしたが、張寔は兵を率いてすぐさま平定した。 313年西中郎将から護羌校尉移った

※この「張軌の時代」の解説は、「張寔 (前涼)」の解説の一部です。
「張軌の時代」を含む「張寔 (前涼)」の記事については、「張寔 (前涼)」の概要を参照ください。

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