関中侵攻と最期
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357年3月、姚襄は北屈へ移ると、再び関中攻略を目論んだ。4月、北屈から軍を進めて杏城に駐屯し、従兄の輔国将軍姚蘭に敷城を攻略させ、兄の曜武将軍姚益・左将軍王欽盧には各々兵を与えて北地の諸勢力を招聘させた。これにより、羌胡や前秦の民で帰順する者が五万戸余りに及んだ。前秦君主苻生は苻飛龍を派遣して姚蘭を攻撃し、姚蘭は敗れて捕らえられた。 姚襄は兵を率いて進んで黄洛に拠ると、苻生は衛大将軍苻黄眉・平北将軍苻道・龍驤将軍苻堅・建節将軍鄧羌に歩騎1万5千を与えて迎え撃たせた。これに対して姚襄は、堀を深く塁を高くして守りを固め、応戦しようとはしなかった。 5月、鄧羌は騎兵3千を率い、塁門に迫る形で布陣し、姚襄を煽った。姚襄は怒って出撃しようとすると、沙門智通は「去年は太白(金星)が鎮(土星)を犯し、今年は彗星が関右を掃いております。出師には利が無いかと存じます。今は兵を励まして衆を収め、後挙をお考えなされますよう」と固く諫めたが、姚襄は「二雄が共に立つことはないであろう。天が徳を棄てずに黎元を救うことを願うばかりだ。我が計は既に決しており、衆を惑わす者は斬る」と述べ、全軍を挙げて撃って出た。鄧羌は相手に優勢に立っていると思わせるように軍を退き、 姚襄軍を本陣から遠く引き離させた。姚襄はこれに掛かり、追撃を続けて三原にまで至ったが、 ここで鄧羌は騎兵を反転させ、敵軍に突撃を開始した。これを合図に、苻黄眉と苻堅が率いる本隊が姿を現し、大規模な戦闘となって姚襄は大敗を喫した。彼は黧眉騧と呼ばれる駿馬に乗っていたが、その馬が転倒した事で前秦軍に捕まり、斬り殺された。享年27であった。 弟の姚萇は敗残兵を纏め上げると、苻生に降伏した。姚襄は父である姚弋仲の棺を軍中に置いていたが、苻生は王の礼をもって姚弋仲を葬り、また公の礼をもって姚襄を葬った。 386年、姚萇が後秦を興すと、姚襄を魏武王と追諡し、孫の姚延定を東城侯に封じた。
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