関中侵攻と最期とは? わかりやすく解説

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関中侵攻と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 06:42 UTC 版)

姚襄」の記事における「関中侵攻と最期」の解説

357年3月姚襄北屈へ移ると、再び関中攻略目論んだ4月北屈から軍を進めて杏城駐屯し従兄の輔国将軍に敷城を攻略させ、兄の曜武将軍姚益・左将軍王欽盧には各々兵を与えて北地諸勢力招聘させた。これにより、羌胡や前秦の民で帰順する者が五万余りに及んだ前秦君主苻生苻飛龍を派遣して攻撃し、姚敗れて捕らえられた。 姚襄は兵を率いて進んで黄洛に拠ると苻生は衛大将軍苻黄眉平北将軍苻道・龍驤将軍苻堅・建節将軍鄧羌に歩騎1万5千を与えて迎え撃たせた。これに対して姚襄は、堀を深く塁を高くして守り固め応戦しようとはしなかった。 5月鄧羌騎兵3千を率い、塁門に迫る形で布陣し姚襄煽った姚襄怒って出撃ようとすると、沙門智通は「去年太白金星)が鎮(土星)を犯し今年彗星が関右を掃いております出師には利が無いかと存じます。今は兵を励まして衆を収め、後挙をお考えなされますよう」と固く諫めたが、姚襄は「二雄が共に立つことはなであろう。天が徳を棄てずに黎元を救うことを願うばかりだ。我が計は既に決しており、衆を惑わす者は斬る」と述べ全軍挙げて撃って出た鄧羌相手優勢に立っていると思わせるように軍を退き姚襄軍を本陣から遠く引き離させた。姚襄はこれに掛かり追撃続けて三原にまで至ったが、 ここで鄧羌騎兵反転させ、敵軍突撃開始した。これを合図に、苻黄眉苻堅率い本隊が姿を現し大規模な戦闘となって姚襄大敗喫した。彼は黧眉騧と呼ばれる駿馬乗っていたが、その馬が転倒した事で前秦軍に捕まり、斬り殺された。享年27であった。 弟の姚萇敗残兵纏め上げると、苻生降伏した姚襄は父である姚弋仲軍中置いていたが、苻生は王の礼をもって姚弋仲葬り、また公の礼をもって姚襄葬った386年姚萇後秦興すと、姚襄魏武王と追諡し、孫の姚延定を東城侯に封じた

※この「関中侵攻と最期」の解説は、「姚襄」の解説の一部です。
「関中侵攻と最期」を含む「姚襄」の記事については、「姚襄」の概要を参照ください。

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