相次ぐ造反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
劉皇太后は石虎の振る舞いに憤り、彭城王石堪と共に密かに石虎討伐を目論んだ。劉皇太后らは謀議し、まず石堪が兗州に向かって南陽王石恢を盟主に推戴して挙兵し、さらに劉皇太后が詔をもって各地の諸将を集めるという手はずとなった。 9月、石堪は襄国を出ると軽騎兵を率いて兗州を強襲したが、攻略に手間取って落とす事が出来なかった。その為、南へ逃走して譙城に入った。石虎はこの事を知ると、配下の将軍郭太らを派遣して追撃を命じた。郭太らは石堪を城父において捕らえると、襄国へ送還した。石虎はこれを火炙りにして処刑し、劉皇太后もまた誅殺した。また、石恢を襄国に召還した。 10月、関中を統治する石生、洛陽を統治する石朗もまた各々石虎討伐の兵を挙げた。石生は秦州刺史を自称すると、東晋に使者を派遣して帰順を請うた。また、氐族酋長蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、雍州刺史・北平将軍を自称すると共に西進して前涼の君主張駿に帰順した。石虎は子の石邃に襄国の守備を任せると、自ら歩兵騎兵併せて7万を率いて出撃した。軍を進めて金墉(洛陽城の一角)へ到達すると、迎え撃って来た石朗軍を破り、これを尽く潰滅した。こうして石朗を生け捕ると、足を切断してから処刑した。 さらに石虎は長安目掛けて軍を進めると、子の石挺を前鋒大都督に任じて前鋒とした。石生は将軍郭権に鮮卑の渉璝部の兵2万を与えて石挺を迎え撃たせ、石生自らも大軍を統率して後続し、蒲坂まで進んだ。石挺は郭権軍と潼関において交戦となったが、大敗を喫して戦死した。丞相左長史劉隗らもまた戦死し、屍は三百里余りに渡って連なった。これにより石虎は澠池まで撤退せざるを得なくなった。 その後、石虎は密かに郭権配下の鮮卑と裏取引を交わす事で、石生の背後を襲わせた。この時、石生は蒲坂に軍を留めており、石挺が敗死した事を知らなかったので、鮮卑の反乱に恐れ慄き、単騎で長安へ逃走した。郭権は離散した兵3千を再び集めると、渭汭において石虎配下の越騎校尉石広と対峙した。やがて石生は長安からも撤退して鶏頭山(鄠県の東にある)へと潜伏すると、将軍蔣英を長安の防衛として残した。石虎は石生の逃亡を知ると、軍を進めて関中に入った。そのまま長安へ侵攻すると、10日余りでこれを陥落させ、蔣英らを処断した。同時期、石生の部下は鶏頭山において石生を殺害すると、石虎に降伏した。郭権は恐れて隴西へと逃亡した。 石虎は諸将を分けて汧・隴に駐屯させると、雍州・秦州の漢人胡人10万戸余りを関東に移住させた。また、将軍麻秋を派遣して蒲洪討伐を命じると、蒲洪は2万戸を伴って再び石虎へ降伏した。石虎はこれを許して光烈将軍・護氐校尉に任じた。蒲洪は長安へ入ると、石虎へ「関中の豪傑と氐羌を京師に移して充実させるべきです。諸々の氐人は皆、我が家の部曲です。我が率いたならば一体誰がこれに背きましょうか!」と勧めた。石虎はこれに同意し、秦州・雍州の民と氐族・羌族の10万戸余りを関東へ移住させ、蒲洪を龍驤将軍・流民都督に任じ、枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県)に駐屯させた。また、羌族酋長の姚弋仲を奮武将軍・西羌大都督に任じ、兵数万を率いさせて清河の灄頭に移らせた。 石虎は襄国に帰還すると、石弘に命じて大赦を下させた。また、石弘には自らに魏台の建設を命じるよう促した。これは魏が漢を輔けた(実質的には簒奪)故事に倣ったものである。 12月、郭権は上邽に拠ると、東晋へ使者を派遣して帰順を請うた。京兆・新平・扶風・馮翊・北地はみなこれに呼応し、石虎に反旗を翻した。334年1月、鎮西将軍石広は郭権討伐に向かったが、返り討ちに遭った。3月、石虎は将軍郭敖・章武王石斌に歩兵騎兵4万を与えて郭権討伐を命じ、郭敖らは華陰まで進んだ。4月、上邽の豪族は郭権を殺害すると、後趙に降伏した。石虎は秦州の3万戸余りを青州・并州の諸郡に移住させた。 長安出身の陳良夫は黒羌(部族名)へ逃走すると、北羌王薄句大らと結託して北地・馮翊を侵犯し、石斌・郭敖と対峙した。楽安王石韜らは騎兵を率いて薄句大の背後を突き、石斌らと挟撃してこれを破り、薄句大を馬蘭山へ敗走させた。郭敖は勝ちに乗じて深追いしたが、反撃に遭って大敗を喫し、7・8割の兵を失った。その為、石斌らは軍を収めて三城に帰還した。石虎はこの報に怒り、使者を派遣して郭敖を誅殺した。 同月、秦王石宏が石虎に対して怨み言を述べたとして、石虎は彼を幽閉した。
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