相次ぐ逮捕の末の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/14 08:01 UTC 版)
「エティエンヌ・ドレ」の記事における「相次ぐ逮捕の末の処刑」の解説
1544年に再度逮捕されたが脱獄、イタリア北西部ピエモンテ州に逃亡。フランス国王やナバラ王国女王、高等法院に宛てた陳情書を出版すべく、一か八かリヨンに戻ったが、またも逮捕され、パリ大学神学部からは堕落した無神論者とレッテルを貼られた。37歳の誕生日、パリのモベール広場で絞首ののち焚刑に処された。処刑中は従容として、五歩格詩 Non dolet ipse Dolet, sed pia turba dolet を詠じたと伝えられる。 裁判記録は1836年に出版された。また、1889年にはモベール広場に銅像が立てられたが、いつのまにか消えてしまった。
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