相次ぐ転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 16:54 UTC 版)
しばらくは獄中から無政府主義者と連絡して獄中手記を発表していたりしていた1937年に「日本のために生き、日本のために死ぬ」と思想転向を表明して恭順上申書を刑務所長に提出した。朴烈と上海戦線で戦う日本人海軍陸戦隊兵士との手紙のやり取りは新聞でも報じられ、内鮮融和のプロパガンダに利用された。 なお、千葉刑務所時代には、二・二六事件の決起将校の一人で同じく千葉刑務所に捕らえられていた池田俊彦と出会っている。池田は回顧録の中で朴烈が反日活動をした朝鮮の農民を搾取した日本人の高利貸しの悪行に抗議したかったという述べたことから、朴に共感して『あのような事件を起こした者とは思えぬ温厚な人であった』と評している。戦後に出獄すると、無政府主義から反共主義へと転向した。大逆罪を受けたという知名度を用いて、在日朝鮮人の組織の結成を目指して1946年に反共産組織である新朝鮮建設同盟を結成して委員長となり、同年10月3日に在日本朝鮮居留民団を結成して初代団長に就任した。しかし1949年の団長選挙で再選されず、失意の内に大韓民国に帰国した。再選出来なかった背景には同胞からの知名度だけで日本支持に公式転向して、日本敗北で再転向したことへの批判と転向に次ぐ転向で評判と人気が下落して組織内部でも不信感が持たれていたからだとされる。 帰国後は李承晩の勧めで国務委員(大臣に相当)に任命されて政界進出に意欲を見せていたが、翌1950年6月に朝鮮戦争中にソウルを占領した北朝鮮軍に捕えられ、北朝鮮へ連行された。1956年、在北平和統一促進協議会会長に就任。 1966年6月に雑誌『統一評論』で「共産主義者と私」を発表し、反共から容共に思想転向を表明した。北朝鮮の南北平和統一委員会の副委員長を務めるなどしたが、田中清玄によると、朴烈はその後スパイ容疑をかけられて最期は処刑され、1974年に刑死した。
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