相次ぐ買収・合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:26 UTC 版)
1920年代に入ると、富山電気は中小電気事業者の合併路線を採り、急速に規模を拡大した。その過程で富山県のみならず石川県にも事業領域を広げたことから、1928年(昭和3年)12月26日に公募による新社名「日本海電気株式会社」へと改称している。 事業統合の最初のものは、1921年(大正10年)11月に実施された日本電気工業からの事業買収である。同社は新潟県長岡市にあった会社で、1910年に設立。富山県東部を流れる片貝川に水力発電所を建設し、1912年1月より下新川郡道下村(現・魚津市)にてカーバイド工場を操業していた。戦後恐慌で工場閉鎖に追い込まれたため、工場設備と発電所を富山電気が引き取った。この結果、片貝第一発電所が自社発電所に加わり、さらに日本電気工業が建設中であった出力3,700キロワット(翌年より7,400キロワット)の片貝第二発電所も1922年(大正11年)8月に完成をみた。 次いで1926年(大正15年)6月1日、広瀬鎮之が経営する県西部氷見の電力会社氷見電気を合併した。同社は、才賀藤吉率いる松阪水力電気の氷見支社が前身で、1911年7月開業の同支社の事業を1918年9月に譲り受けて成立した。自社発電所を持たず前述の通り富山電気から受電していたことから合併を希望し、合併実現に至った。続いて同年12月1日、氷見の北方、能登半島にある電力会社能登電気を合併した。同社は半島中部の七尾・志雄・高浜と北部の輪島にあった4事業者を束ねて1920年1月に設立。合併前年には羽咋の事業者も合併していた。能登電気合併の結果、富山電気は七尾町に能登支社を新設した。また同じ時期、同じ富山県の高岡電灯も能登の能州電気を合併したことから、能登半島は富山電気と高岡電灯の供給区域が入り組む地域となった。 1928年6月1日には中越水電を合併した。同社は熊野川開発を目的として1918年9月に設立された中越電気工業が前身で、1920年代に入ってから富山県下の6事業者を統合、さらに常願寺川水系小口川でも水力開発を展開するなど積極的に事業を拡大していた。1927年2月には、富山市郊外の上新川郡山室村に建設された日本曹達富山工場(1942年閉鎖)に対して1,000キロワットの電力供給を開始し、富山を地盤とする富山電気に脅威を与えた。ところが積極路線を推進してきた社長が同年5月に急死すると、間もなく富山電気との合併を選択したのであった。 中越水電合併に次いで1928年12月には、石川県の小松電気を傘下に収めた。同社は能美郡小松町(現・小松市)を地盤とする電力会社であるが、富山県東部の下新川郡泊町(現・朝日町)にも支社を置いて事業を行っていた。石川方面の余剰電力を富山電気の送電線を利用して泊地区へと送電する計画のため、富山電気に株式を買収されて傘下に入った。 一連の合併により、1922年に10万灯超となっていた電灯数は、5年後の1927年には25万灯へ倍増、翌1928年には30万灯に達した。一方で電力供給の増加に伴い1920年より電力料収入が電灯料収入よりも多くなり、以後その差は拡大し続けた。また一連の合併に伴い資本金は2135万円に達したが、日本海電気への改称後にさらに「第二日本海電気株式会社」を新設してこれを吸収するという形の変態増資が実施された。この第二会社は1929年(昭和4年)11月12日に発足。資本金は1115万円で、日本海電気の株主や従業員が出資した。翌1930年(昭和5年)2月1日、第二会社は日本海電気に合併され、日本海電気の資本金は3250万円となった。この間の1929年6月に創業以来の社長金岡又左衛門が死去したため、後任社長に山田昌作が就任した。
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