相次ぐ衝突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:54 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「相次ぐ衝突」の解説
民族間の対立が深まるなか、1988年2月26日にゴルバチョフはナゴルノ・カラバフ統一運動指導者のゾリ・バラヤン(ロシア語版)、シルヴァ・カプティキャン(英語版)と面会し、アルメニア人の関心に答えるためのできる限りのことをすると述べた。その後アルメニアへ戻ったカプティキャンは群衆に向けて「アルメニア人は勝利した」と宣言したが、これはモスクワに対し圧力をかけるための行為だったとみられる。しかし、他の地域の領土問題に危険な前例を作ることを恐れたゴルバチョフは、3月10日にソ連憲法第78条に基づき、共和国の国境を変更することはないと宣言した。アゼルバイジャン人はゴルバチョフの意向に完全に同調したが、アルメニア人は「失地回復」こそが憲法に定められた自分たちの権利であると考えた。 6月15日、アルメニア最高会議はナゴルノ・カラバフ自治州の自国への移管を決議し、その2日後にはアゼルバイジャン最高会議がこれを否認する決議を採択した。7月5日には事態を収拾しようとエレヴァン近郊のズヴァルトノッツ国際空港に到着したソ連兵とアルメニア人市民の間で衝突が発生し、市民側に1人の死者と36人から50人の負傷者が発生した。これによってアルメニアでは反露感情が高まり、悪化する情勢を危惧した連邦最高会議は、1989年1月にナゴルノ・カラバフを一時的に連邦共産党の直轄地とし、状況は若干の安定を見せた。しかしこれに反発したアゼルバイジャン人民戦線がアルメニアとナゴルノ・カラバフに対する鉄道の封鎖を提案し、9月に実行された封鎖により、物資の85パーセントを鉄道輸送に頼っていたアルメニアの経済は破壊された。しかしこれは同年初夏からアルメニアがナヒチェヴァンに対して行っていた禁輸措置への対抗策だったとする反論もある。やがて鉄道網の麻痺は一部のアルメニア人武装勢力によるアゼルバイジャン人鉄道員への攻撃に繋がってゆく。反発の大きさから連邦最高会議は11月に再びナゴルノ・カラバフをアゼルバイジャンの管轄へ戻すと決議したが、エレヴァンではこれに抗議して30万人が参加するデモが繰り広げられ、アルメニア最高会議もナゴルノ・カラバフ編入決議を繰り返した。 民族間の対立は高まる一方で、1989年前期の数か月でアルメニアに住むアゼルバイジャン人とアゼルバイジャンに住むアルメニア人の間で強制的な住民交換が行われ、1988年末までに、20万人以上のアゼルバイジャン人とイスラム教徒のクルド人がアルメニアの数十の村から追放された。アゼルバイジャン政府の調べでは、スピタク、グガルク(アルメニア語版)とステパナヴァン(ロシア語版)で1988年11月27日から29日にかけて33人が、1987年から1989年を通してでは216人が殺害されたという。一方でアルメニア側は、1988年から1989年を通して殺害されたアゼルバイジャン人は25人であると主張している。紛争の最初の2年間での犠牲者数は推計に幅があるが、1989年10月号の『タイム』誌では、1988年2月からの死者は双方が百人を超えているとされている。アルメニアから脱出するアゼルバイジャン人も、アゼルバイジャンから脱出するアルメニア人も、双方が国境で通行料を取り立てられた。 また、1988年12月にアルメニアで数万人が死亡するスピタク震災が発生した際も、アルメニア人は「ムスリムの血を体内に入れるくらいなら死んだほうがまし」と、アゼルバイジャンから大量に送られた医薬品や輸血用血液を無駄にした。一方のアゼルバイジャン人も、震災後にアルメニアに向けて「震災おめでとう」と書かれた列車を走らせている。加えて、この震災で中央政府に先んじて救援活動を行ったのがレヴォン・テル=ペトロシャンを始めとする対アゼルバイジャン強硬派の「カラバフ委員会(ポーランド語版)」のメンバーであったため、さらに両国の関係は冷却し、アルメニア共産党の権威も下落していった。 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} バクー(1990年1月) キロヴァバード (1988年11月) スムガイト(1988年2月) バガニス・アイルム(1990年3月) シャウミャノフスク地区 (1991年4月) アスケラン(1988年2月)
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