相次ぐ競輪場の廃止とは? わかりやすく解説

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相次ぐ競輪場の廃止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)

競輪」の記事における「相次ぐ競輪場の廃止」の解説

鳴尾事件以後も、断続的に発生する暴動事件起因とする、マスメディア中心とする競輪への強い風当たりが続いた。そんな折、1955年昭和30年1月にときの農林大臣河野一郎群馬県前橋市行った記者会見席上競馬は、土曜日曜祭日以外は開催しないことを閣議提案する」という発言行ったことが波紋広げ翌日定例閣議申し合わせなされたが、当時通産大臣石橋湛山が「河野発言」を了承することにより、競輪競馬同調することになった河野のこの発言を受け、当時大阪府知事だった赤間文三は、原則土日開催限定されることによる売り上げ減少懸念し1956年度以降大阪府主催競馬競輪開催中止する旨を表明これに伴い府営豊中競輪場1955年6月限り廃止されることになった競輪場廃止例は、当時既に松本競輪場1951年)・松江競輪場1953年)で見られたが、いずれも経営不振よるものであり、政治的な理由による廃止豊中最初であったその後近畿地区競輪場廃止相次いだ。まず1958年昭和33年)、京都市競輪場市議会賛成多数により廃止決定。さらに当時兵庫県知事阪本勝兵庫県ギャンブル廃止表明したことから、1960年昭和35年12月神戸競輪場が、1961年昭和36年3月明石競輪場それぞれ廃止された。また、大阪市営中競輪場も、1959年昭和34年)に大阪競馬場廃止されたことを踏まえ都市公園として整備する方針打ち出したことから、ときの大阪市長中井光次1962年昭和37年3月をもって廃止決定した。このほか大阪住之江競輪場1964年昭和39年)に休止事実上の廃止)となり、大阪市内存在した2つ競輪場消滅した近畿地区以外にも政治的な理由による廃止が相次ぎ札幌競輪場1960年開催廃止)・福岡競輪場1962年廃止)・会津競輪場1963年休止)・長崎競輪場1966年開催廃止)がそれぞれ姿を消した。 そして、この一連の流れは、当時競輪メッカ」を標榜していた後楽園競輪場にも飛び火する。

※この「相次ぐ競輪場の廃止」の解説は、「競輪」の解説の一部です。
「相次ぐ競輪場の廃止」を含む「競輪」の記事については、「競輪」の概要を参照ください。

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