相次ぐ洪水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「相次ぐ洪水」の解説
新たに形成された桧原湖、小野川湖、秋元湖が満水となった後、長瀬川中流~下流域では洪水が頻発するようになった。原因は上流部に堆積した大量の土砂が流れ下ることによって、長瀬川中流~下流では河床が上昇して洪水が起こりやすくなった上に、上流部には排水がコントロールされない桧原湖、小野川湖、秋元湖があることにあった。つまり大雨時には大量の水が湖からあふれ出し、河床が上昇した長瀬川下流で洪水を起こすというメカニズムであった。 長瀬川上流部に堆積した岩屑なだれの土砂は、厚さ数十メートルから100メートルを超えるとの推定がされている。傾斜が急な上流部では浸食がどんどん進み、一方中流から下流では大量の土砂が堆積していったのである。長瀬川は磐梯山噴火後、毎年のように水害に襲われるようになった。中でも1890年(明治23年)、1894年(明治27年)、1902年(明治35年)、1910年(明治43年)、1913年(大正2年)は大洪水となった。1902年の洪水では長瀬川流域ばかりでなく、下流に当たる猪苗代湖の湖畔の集落にも大きな被害が出た。 もちろん頻発する水害にただ手をこまぬいていたわけではない。内務省は技術者を派遣し、予算面でも配慮を行い、内務省の技術者の支援のもとで福島県は1890年(明治23年)以降、本格的な堤防建設に乗り出した。しかし問題の本質は上流からの大量の土砂の供給に伴う河床の上昇と、排水が全くコントロールされていない桧原湖、小野川湖、秋元湖の存在である。いくら堤防を造ってみたところで洪水によって決壊し、更に利水を目的とする用水も被害を受け、被災後は住民らが復旧工事に追われるといういたちごっこが繰り返された。
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