浅野家の時代とは? わかりやすく解説

浅野家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:13 UTC 版)

赤穂藩」の記事における「浅野家の時代」の解説

同年、代わって常陸国笠間藩より浅野長直5万3000石で入部した長直石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、さらに城下町造営した転封工事により財政悪化した池田家の代より始まっていた塩田開発奨励し整備行い、塩を赤穂特産品とした。以後、塩は赤穂特産として藩財政支えて行くこととなる(当時通称赤穂塩」と呼ばれていた。現在の現地遺跡の発掘により、その起源は、弥生時代にまで遡るとする研究結果もある)。 第2代藩主・長友は寛文11年1671年)、義兄義弟分知し、石高5万となった元禄14年1701年)、第3藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本吉良義央斬りつける刃傷事件起こし、長矩は切腹浅野家は改易となったこの際藩札残額九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老大石良雄らが、債権者による混乱対処奮闘した取り潰される藩のものとしては、額面の6割という高い率の銀正貨回収している)。 広島藩の「浅野文書」では赤穂藩藩札回収広島本家三好藩からの多額援助記され赤穂藩断絶後浅野本家鴻池家からの借財桁違い増加している。一方岡山藩記録では赤穂の「高都三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩を持つ備前商人が(赤穂藩としては、基本的に他領での流通制限したになっているが、実際には藩外にも流出した)「四分六分」の換金率額面の4割)だと言われ赤穂城下で喧嘩同然騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に仕方なく池田家肩代わりしたと記される。 そして元禄15年1702年)に家臣による吉良邸討ち入り起こった元禄赤穂事件)。連座した長矩の弟・浅野長広赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられたが、宝永7年1710年)に安房国朝夷郡平郡500石に移され減封となった旗本復した長広の跡は嫡男の長純が家督受け継ぎ長直浅野家は、安房国で続くことになる。

※この「浅野家の時代」の解説は、「赤穂藩」の解説の一部です。
「浅野家の時代」を含む「赤穂藩」の記事については、「赤穂藩」の概要を参照ください。


浅野家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:05 UTC 版)

広島藩」の記事における「浅野家の時代」の解説

代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行務めた浅野長政次男浅野長晟安芸1国・備後8郡の国主大名として入封した。芸備二国福島領より狭少だが、426000石の検知高を得て幕府から承認された。広島大坂との瀬戸内海航路海運恵まれ、藩成立早期より木材・紙などの専売敷いたまた、米相場巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場見極めて売りさばき巨利得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期学者海保青陵儒学経済学)より評された。 長晟は福島家時代政策踏襲するが、その一方で土豪に対して厳し態度臨み統治機構近代化目指した。 第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康外孫であったため、幕府許し得て光晟の庶兄浅野長治5万石を分与した。これが支藩である三次藩立藩であり三次陣屋置かれた。光晟は街道整備尽力し、また松平姓名乗ることも許された。 第3藩主・綱晟(光晟の長男)は正室継室いずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降浅野宗家豊臣家の血を女系受け継ぐことになる。 第4代藩主・綱長(綱晟の長男時代元禄14年1701年)、分家赤穂藩主・浅野長矩刃傷事件起こす至ったが、この事件受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家一族連座するのを避けるため、進藤俊重小山良速など赤穂藩重臣たちの親族藩士次々と赤穂藩派遣して開城圧力かけたりその後大石良雄盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式小山良師大石側近説得して脱盟させている。もっとも、討ち入りそのもの阻止出来なかった。しかし数年後態度一変させて大石良雄三男・良恭や小山氏萱野氏など赤穂藩旧臣召抱えるようになった。藩では浅野家との婚姻により、大石家一門化しようとしたがことごとく失敗し大石家減封絶家再興除籍他家からの養子入り繰り返された。 また、赤穂藩藩札回収広島本家三次藩からの多額援助が行なわれ、赤穂藩断絶後鴻池家からの借財桁違い増加している。 延宝8年赤穂藩藩札広島藩(現在は広島市)に残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている。このような事情もあり、綱長時代の藩政商品経済発達による藩財政行き詰まり顕著になったため、家臣団知行削減藩札大量発行が行なわれている。 こうして江戸時代中期になると、財政悪化転じた。第5代藩主浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権奪い返して親政試み有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化目指し藩政改革試みたが、郡村支配の強化反発招いて享保3年1718年3月大規模な一揆にあい、失敗終わった。なお、享保5年1720年5月三次藩断絶したため、享保15年1730年3月吉長は弟の長賢に蔵米3万石分与して、新田分知広島新田藩)を立藩し、本家継嗣断絶した際に備えた。また享保10年1725年)、広島藩藩校として、白島稽古屋敷の一部割いて講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。 第6代藩主・宗恒(吉長長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革着手して成功収め財政好転する第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策採用し徹底した制度簡素化綱紀の粛正図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水旱魃冷害虫害などによる凶作飢餓悩まされ結局のところ、財政悪化した。しかも天明6年1786年)には打ちこわし起こっている。第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。 第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍・徳川家斉の娘・末姫との婚儀饒津神社造営幕府の手伝い普請凶作が相次ぎ幕末になると藩財政窮乏一途たどったこのため斉粛は殖産興業実施・藩内産物専売制強化行なった。しかし藩札濫発による物価騰貴専売制反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団対立まで起こり改革事実上頓挫した第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。 第11藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革受け継ぎ文久2年1862年)、辻将曹家老抜擢し文久の改革行なった藩政機構支配体系中央集権化図り財政強化し軍備近代化し成功をみた。長州征討広島最前線基地となり、戦争景気湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府長州藩仲介務め一方で幕府命じた長征先鋒役を辞退している。 慶応2年1866年)に第14代将軍徳川家茂死去し第2次長征事実上幕府軍敗退に終わると、広島藩次第長州藩影響を受けるようになり、慶応3年1867年)には長州藩薩摩藩同盟を結び、倒幕踏み切った一方で第15代将軍徳川慶喜大政奉還建白を行うなどしたため日和見藩として不信招き明治維新主流からは外された形となった。しかし戊辰戦争では官軍参加して戦った明治2年1869年6月第12代藩主長勲(重晟の曾孫)は版籍奉還により広島藩知事任じられる同年同月明治政府報告した藩の負債総額374万2290であった明治4年1871年)、廃藩置県により広島県となった廃藩置県後報告では藩札の未回収残が83万両余(銀札では179千482貫余)残っており、これらは明治政府により交換されることとなった。さらに広島藩(のち広島県)における重臣勘定奉行ほか)による贋金作り露見し浅野長勲二分金金札三原要害東山屋敷浅野忠英邸などにおいて製造されていたとの内容報告書提出し関係者処罰されている(長勲不定期謹慎)。 明治17年1884年)、藩主浅野家は侯爵となり華族列し家老三家男爵となった。なお長勲は昭和12年1937年)に96歳で死去するまで長寿保ち当時の報道媒体からは「最後殿様」ともてはやされたという。なお、昭和20年(1945年)8月6日広島原爆投下では、浅野家の居城である広島城投下目標とされ、悲劇舞台となってしまった。 なお、支藩分家)として三次藩広島新田藩があった。また赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も分家といわれる場合もあるが、正確に別家である。

※この「浅野家の時代」の解説は、「広島藩」の解説の一部です。
「浅野家の時代」を含む「広島藩」の記事については、「広島藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「浅野家の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「浅野家の時代」の関連用語

浅野家の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



浅野家の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの赤穂藩 (改訂履歴)、広島藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS