浅野家の時代
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同年、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。長直は石高にそぐわない宏壮な赤穂城を旧城の南に13年かけて築城し、さらに城下町も造営した。転封と工事により財政は悪化した。池田家の代より始まっていた塩田開発を奨励し整備を行い、塩を赤穂の特産品とした。以後、塩は赤穂の特産として藩財政を支えて行くこととなる(当時は通称「赤穂塩」と呼ばれていた。現在の現地遺跡の発掘により、その起源は、弥生時代にまで遡るとする研究結果もある)。 第2代藩主・長友は寛文11年(1671年)、義兄・義弟に分知し、石高は5万石となった。 元禄14年(1701年)、第3代藩主・長矩(内匠頭)は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こし、長矩は切腹、浅野家は改易となった。この際、藩札の残額が九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老の大石良雄らが、債権者による混乱の対処に奮闘した(取り潰される藩のものとしては、額面の6割という高い率の銀正貨で回収している)。 広島藩の「浅野家文書」では赤穂藩の藩札回収に広島本家と三好藩からの多額の援助が記され、赤穂藩の断絶後に浅野本家は鴻池家からの借財が桁違いに増加している。一方、岡山藩の記録では赤穂の「札之高都合三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩札を持つ備前商人が(赤穂藩としては、基本的には他領での流通を制限した事になっているが、実際には藩外にも流出した)「四分六分」の換金率(額面の4割)だと言われて赤穂城下で喧嘩同然の騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に、仕方なく池田家で肩代わりしたと記される。 そして元禄15年(1702年)に家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。連座した長矩の弟・浅野長広は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられたが、宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広の跡は嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野家は、安房国で続くことになる。
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浅野家の時代
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代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟が安芸1国・備後8郡の国主大名として入封した。芸備二国の福島領より狭少だが、42万6000石の検知高を得て幕府から承認された。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ、相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵(儒学・経済学)より評された。 長晟は福島家時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み、統治機構の近代化を目指した。 第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩の立藩であり三次陣屋が置かれた。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。 第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降の浅野宗家は豊臣家の血を女系で受け継ぐことになる。 第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重、小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式や小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも、討ち入りそのものの阻止は出来なかった。しかし数年後、態度を一変させて大石良雄の三男・良恭や小山氏・萱野氏など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では浅野家との婚姻により、大石家を一門化しようとしたがことごとく失敗し、大石家は減封・絶家・再興・除籍・他家からの養子入りが繰り返された。 また、赤穂藩の藩札回収に広島本家と三次藩からの多額の援助が行なわれ、赤穂藩の断絶後に鴻池家からの借財が桁違いに増加している。 延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている。このような事情もあり、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の大量発行が行なわれている。 こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて享保3年(1718年)3月に大規模な一揆にあい、失敗に終わった。なお、享保5年(1720年)5月に三次藩が断絶したため、享保15年(1730年)3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、新田分知(広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。また享保10年(1725年)、広島藩の藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。 第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水や旱魃、冷害、虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、結局のところ、財政は悪化した。しかも天明6年(1786年)には打ちこわしも起こっている。第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。 第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍・徳川家斉の娘・末姫との婚儀、饒津神社の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行なった。しかし藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団で対立まで起こり、改革は事実上頓挫した。第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。 第11代藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹を家老に抜擢し文久の改革を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。 慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結び、倒幕に踏み切った。一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白を行うなどしたため、日和見藩として不信を招き、明治維新の主流からは外された形となった。しかし戊辰戦争では官軍に参加して戦った。 明治2年(1869年)6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は版籍奉還により広島藩知事に任じられる。同年同月に明治政府に報告した藩の負債総額は374万2千290両であった。 明治4年(1871年)、廃藩置県により広島県となった。廃藩置県後の報告では藩札の未回収残が83万両余(銀札では17万9千482貫余)残っており、これらは明治政府により交換されることとなった。さらに広島藩(のち広島県)における重臣(勘定奉行ほか)による贋金作りが露見し、浅野長勲は二分金や金札が三原要害・東山屋敷・浅野忠英邸などにおいて製造されていたとの内容の報告書を提出し、関係者が処罰されている(長勲は不定期の謹慎)。 明治17年(1884年)、藩主・浅野家は侯爵となり華族に列し、家老三家は男爵となった。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時の報道媒体からは「最後の殿様」ともてはやされたという。なお、昭和20年(1945年)8月6日の広島原爆投下では、浅野家の居城である広島城が投下目標とされ、悲劇の舞台となってしまった。 なお、支藩(分家)として三次藩、広島新田藩があった。また赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も分家といわれる場合もあるが、正確には別家である。
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