浅野大学閉門と円山会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
そのさなかの7月18日、浅野大学に対して「広島藩預かり」という処分が下った。これはお家再興が事実上あり得ない事を示していた。大学は同日、本家の広島藩邸に移った。 大学処分の報せが上方に届いたのは、24日であった。大石内蔵助が最後まで望みを託していた浅野家再興の望みは絶たれ、また堀部安兵衛らの突き上げを喰らって旧藩士が分裂寸前の状態にあっては、もはや討ち入りを止めることはできなかった。大石は「穢れたる御名跡を立て置き候わんより、打ちつぶし申す段本望と存じられ候」と述べ、むしろ大学絶家を討ち入りの契機とすべしと同志たちに檄をとばす。 7月28日、急ぎ京都の円山にある安養寺の塔頭「重阿弥」に近隣にいた同志が呼び集められ、会議が開かれた(円山会議)。この席で、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した。この会議に参加したのは、大石、堀部のほかに、大石主税、大石瀬左衛門、潮田又之丞、小野寺十内、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、間瀬久太夫、間瀬孫五郎、原惣右衛門、貝賀弥左衛門、武林唯七、不破数右衛門、矢頭右衛門七、三村次郎左衛門、大石孫四郎、岡本次郎左衛門の19名で、この内、大石孫四郎、岡本次郎左衛門を除く17名が最終的に討ち入りの浪士の中に含まれている。 なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである。 堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴を装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議)。
※この「浅野大学閉門と円山会議」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「浅野大学閉門と円山会議」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。
- 浅野大学閉門と円山会議のページへのリンク