浅野家経営時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:33 UTC 版)
江戸時代が終って明治時代に入り、日本でも工業化がその緒に就くと、欧米諸国から輸入した抄紙機を用いて洋紙を生産する製紙会社が現れ始めた。東京の抄紙会社(後の王子製紙)および三田製紙所、大阪の蓬萊社製紙部(後の中之島製紙)、京都のパピール・ファブリック、神戸の神戸製紙所(現・三菱製紙)などがそれである。これらの会社はいずれも1875年以降に操業を開始したのであるが、これに先立つ1874年に操業を開始したのが有恒社である。設立は1872年2月で、現在の大手メーカーである王子グループや日本製紙の起源である初代王子製紙の設立(1873年2月)よりも1年先立つ。工場建設には至らなかったが1871年に設立された日本初の製紙会社である洋法楮製商社に続く、2番目の製紙会社であった。 有恒社を起こしたのは、広島藩最後の藩主で浅野侯爵家当主の浅野長勲である。東京の蛎殻町(現・東京都中央区日本橋蛎殻町)を工場用地として選び、イギリス人建築技師トーマス・ウォートルスの手により工場建設に着手した。抄紙機をイギリスから輸入し、工場の操業にあたってはイギリス人技術者を雇い入れ、1874年6月より抄紙機の運転を開始、紙の生産を始めた。工場には旧広島藩の者が多く雇用され、授産事業としての側面も有していた。 操業を開始したものの洋紙産業の黎明期ということもあり、生産は伸び悩んだ。しかし1877年に西南戦争が始まると印刷業が興隆し、その影響で工場の在庫は一掃されたという。その後も操業を継続していたが、後発の製紙会社の勢力が伸長してきたために1890年代になると業績は低迷した。そこで1892年、全面的に経営を久保順太郎に委任、彼の下で経営改革が行われた結果建て直しに成功した。
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