相次ぐ試練
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:40 UTC 版)
郷里の浦上山里村は、マキたちが不在の間に土地も家もすっかり荒れ果て、政府が建てたバラックがあるだけであった。父と妹の死に加えて、母と兄の行方も不明であった。マキは父親代わりとして、母や兄弟たちを助け、人の何倍も働いた。農作をしようにも、農具もないために、陶器の破片で畑を耕した。 1874年(明治7年)6月、長崎の伊王島で赤痢が発生し、死者はキリシタンだけでも100人に達した。この赤痢は浦上でも蔓延して、多くの患者が発生した。赤痢の治療法が確立していない時代であり、しかも鶴島で苦しんでいた人々は体が衰弱していた上に、衛生環境も悪いためであった。 宣教師としてフランスから訪日していたマルク・マリー・ド・ロ神父は救護活動として、浦上の女性たちを救護隊として編成した。マキもその1人として、一同を統率した。ド・ロ神父が医学と薬学に長けることから、マキたちは予防法や薬の使用を教わった。浦上のキリシタンの中心人物である高木仙右衛門は合宿場所を用意し、マキたちは、そこでド・ロ神父の指導のもとで生活した。いつでの救護活動が可能とするため、且つ、家族への感染を防ぐためである。ド・ロ神父とマキたちの尽力により、浦上は赤痢の患者数が最も多いにも関わらず、死亡者は少なく済んだ。 同1874年8月、赤痢がようやく下火になりかけた頃、九州一帯は台風の被害に見舞われた。暴風雨に加えて洪水、高潮襲来などの被害の連続で、後年まで「戌の年の大風」として語り継がれるほどであった。この台風で最も被害を受けたのも浦上であり、バラックのほとんどが倒壊した。ようやく営んでいた田畑もほぼ全滅し、苦心して実らせた作物もすべて暴風雨にもぎとられた。 この相次ぐ苦難においても、マキたちは人々の救助のため、ほぼ不眠不休で働いた。高木仙右衛門の用意した合宿所で、1枚の布団を交代で使ってわずかの睡眠をとり、イモと醤油粕で飢えを凌ぎ、おからが出れば御馳走の部類であった。 赤痢と台風が収まった頃、長崎郊外の蔭ノ尾島で、天然痘の流行が発生した。これは当時の人々にとって、赤痢以上の恐怖であり、肉親ですら病人の看護を恐れるほどであった。ド・ロ神父はただちに、マキたちや土地の青年たちを率いて、天然痘の救護活動に赴いた。
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