石虎の傀儡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 16:32 UTC 版)
7月、石勒が崩御すると、石虎はすぐさま石弘の身柄を抑え、朝廷に臨んだ。また、程遐・徐光を捕らえるよう命じ、廷尉に下した。さらに、子の石邃を呼び寄せ、兵を与えて宿衛に侵入させると、文武百官はみなこれに服従した。石弘は大いに恐れ、石虎へ位を譲ろうとしたが、石虎は「君(君主)が薨じたならば、世子が立つものです。これは礼の常であり、臣はどうしてこれを乱せましょうか!」と応じなかった。だが、石弘は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたので、石虎は怒って「もしその任に堪えられなかったならば、自ずと天下で大議が起こりましょう。どうして今その論を預かるに足りましょうか!」と言い放ち、ついに石弘は強制的に皇帝に即位させられた。延熙と改元し、嫡母の劉皇后は皇太后に立てられ、文武百官は位を一等進められ、程遐・徐光は誅殺された。石勒の遺体は山谷に密かに埋葬され、その場所を知る者はいなかった。後日、儀仗や衛士を備えた上で、改めて高平陵において虚葬を行い、明帝と諡し、廟号を高祖とした。 8月、石弘は石虎からの圧力を受けて、石虎を丞相・大単于に任じて九錫を下賜し、魏郡を始めとした13郡を封国として魏王に封じ、石虎の子達にもそれぞれ王号を与えた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。石勒の時代からの文武の旧臣は、みな左右丞相府の閑職に追いやられ、代わって石虎の府に仕えていた側近が、朝廷の重職を独占した。これに対し皇太后の劉氏は石虎の専横に怒り、石勒の養子であった彭城王石堪と共に密かに石虎の討伐を計画した。しかしこの計画は失敗し、劉皇太后は石堪ともども処刑された。10月には関中を統治する石生、洛陽を統治する石朗らが各々石虎討伐の兵を挙げたが、いずれも石虎の兵力の前に鎮圧された。また石弘の弟であった秦王石宏も、石虎への中傷を口にしたとして幽閉された。
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