朝政を管轄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:32 UTC 版)
302年3月、皇太孫司馬尚が亡くなった。恵帝は子の司馬遹と孫の司馬虨・司馬臧・司馬尚を立て続けに亡くしており、直系の後継者がいなかったので、恵帝の弟である司馬穎が後継ぎの有力候補になった。だが、長期に渡る専政を目論んでいた司馬冏はこれを嫌い、まだ8歳である清河王司馬覃(恵帝の弟の司馬遐の子)を後継ぎとした。 11月、河間王司馬顒が司馬冏討伐を掲げて諸王に檄文を飛ばすと、洛陽城内にいた長沙王司馬乂がこれに呼応し、司馬冏と3日間に渡る争いを繰り広げ、これに勝利して司馬冏を処断した。こうして司馬乂は朝廷の第一人者となったが、自ら朝政を専断する事はせず、政務については事の大小にかかわらず、鄴にいる司馬穎が全て報告を受けて裁決を任されることとなった。
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