京都の爆撃回避について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:14 UTC 版)
「エドウィン・O・ライシャワー」の記事における「京都の爆撃回避について」の解説
ライシャワーは戦後に西ドイツで書かれた『千の太陽より明るく』という題名の本の中に、「ライシャワーが第二次世界大戦中にアメリカ陸軍で対日情報戦の専門家として働いていた頃、ある時アメリカ陸軍航空隊による日本の主要都市の爆撃リストを受け取る。そしてその中に、数々の名所、旧跡を持つ古都である(と同時に西日本の交通の要衝でもある)京都の名前があり、そのあまりの無知、無軌道さに愕然としたという。ショックのあまりに自分の上司のオフィスに駆け込み大粒の涙をこぼしながら上司に京都を爆撃リストから外す事を必死に頼み込んだという。ライシャワーの必死の説得に心を打たれた上司は、陸軍長官ヘンリー・スティムソンに事情を説明する。そのスティムソンもまた、自分のハネムーンで京都を訪れて以来日本に感銘を受け、京都をリストから除外する事に尽力。日本の文化遺産、古都である京都はアメリカ軍機による爆撃を免れ今日までその文化遺産を伝えている」という逸話がある。 しかし、ライシャワーはこの逸話の存在を自伝『ライシャワー自伝』内で完全に否定している 上に、吉田守男によれば、京都が空襲を受けなかったのはそのような理由ではなく、さらに大戦末期に至るまで本格的な戦略爆撃を受けなかった京都は、「原爆による破壊効果を測定しやすい」という観点から、広島と長崎に次ぐ第3の原爆投下予定地の1つであったことが明らかにされている。京都は当時、日本陸軍第16師団の衛戍地である上、東京方面から大阪や神戸などの大都市に抜ける交通の要所として、燃料や石炭、鉄鉱石、石灰石などを運ぶ非常に重要な役割を果たしており、しかも三菱や島津製作所の軍需工場などが多数存在するという「軍事都市」としての位置づけもあり、当然のごとく戦略目標であった。また京都府には日本に数少ないニッケル鉱山である大江山やタングステンの鉱山を多数を抱えていた。
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