京都の舞妓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 07:53 UTC 版)
古くは「舞子」と書き、かつては9 - 13歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していた。現在では中学卒業後でないとなれない。 通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」として、だらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。座敷や舞台に上がるときは芸妓も舞妓も白塗りの厚化粧をするが芸妓が通常鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結い、四季の花などをあしらった華やかで可憐な花簪(長く垂れ下がった簪は1年目のみであり、以後は次第に花が大きくなる)を挿す。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2 - 3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1 - 4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟足をV字状に白塗りするのは、江戸時代の女性が生え際の髪を抜いて同形状に整形していた名残である。襟替えして芸妓になる時期は20歳前後の場合が多い。 年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装は必ず肩上げ、袖上げのされた裾を引いた振袖の着物を着る。歩くと音が鳴るぽっくり(こっぽりとも、京都では「おこぼ(新米の舞妓には内側に鈴が付けられる)」)の下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であると言えるかも知れない。座敷では主に立方を務め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことば(祇園ことば)を使うよう教育されるために、京都の象徴であるかのように扱われることも多い。 本業は茶屋や料亭、旅館などにおいての接待であるが、最近はテレビなどのメディアへの露出、養護施設や病院への慰問、海外への派遣の仕事も多い。「一見さんお断り」の閉鎖的空間であった花街も近年、徐々に門戸を開いており、京都市観光協会が観光イベントとして協賛し、2009年1月より祇園の料理旅館で「京料理と舞妓の夕べ」なども定期的に開催されるようになった。また、「おおきに財団」(京都伝統伎芸振興財団)が、お茶屋でお座敷遊びのイベントを開催することもあり、一般の観光客にも花街文化を体験できる機会が増えている。一方で、近年では「舞妓パパラッチ」とも称される外国人観光客による接触や付きまといや強引な撮影など、舞妓に対する迷惑行為が増え、行政や地域住民らが注意喚起するリーフレットを作成・配布をしたり看板を掲げたりするなどの対策を行っている。 現在、京都の花街で舞妓がいるのは祇園甲部・宮川町・祇園東・先斗町・上七軒の五花街である。インターネットを通して舞妓志望者を募る置屋もある。近年はブームのせいもあってか、舞妓志望者は増える一方である。にもかかわらず、昔気質のつらい修行に耐え切れず辞めてしまう場合が多い。そのため、花街ではいかに質の高い芸舞妓を保持するかが今後の問題である。 表 話 編 歴 京の花街 六花街祇園甲部 祇園東 宮川町 先斗町 上七軒 嶋原 花街の「をどり」都をどり 鴨川をどり 京おどり 北野をどり 祇園をどり 現存しない花街(遊廓)年号は廃止年を表す 明治・大正・昭和初期清水新地(1873年) 白梅図子(〃) 辰巳新地(1874年) 三本木(1876年) 壬生(1881年) 下河原(1886年) 二条新地(1887年) 墨染(1911年) 五条橋下(1912年頃) 下の森(1926年頃) 売春防止法施行時(1958年)五番町 七条新地 撞木町 橋本(八幡) 猪崎(福知山) 新浜(宮津) 朝代(舞鶴) 龍宮(同) 売春防止法施行後中書島(1970年) 五条楽園(旧・七条新地、2011年) 教育機関八坂女紅場学園 東山女子技芸学校 鴨川学園 関連用語置屋 お茶屋 歌舞練場 芸妓 太夫 舞妓 関連組織京都伝統伎芸振興財団
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