明治・大正・昭和初期とは? わかりやすく解説

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明治・大正・昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/20 16:44 UTC 版)

原町 (仙台市)」の記事における「明治・大正・昭和初期」の解説

明治時代原町仙台その周辺における流通中心地一つだった。原町には米穀商多く集まり、米、麦、大豆集散地となっていた他、高砂村から行商来ていた。また、塩竈七ヶ浜海産物仙台肴町運ばれる流通経路にあったことから、1880年明治13年)に原町魚問屋誕生した1888年明治21年)に市制町村制公布され、翌1889年明治22年)、宮城郡の南目苦竹小田原合併し同時に仙台区一部だった北六番丁一部編入して、自治体として原町成立する1918年大正7年)に仙台市原町長町合併する構想生まれる。しかし、この頃郡制施行されており、原町には宮城郡郡役所が、長町には名取郡郡役所置かれ、町は郡の監督を受ける立場だった。宮城郡役所立場として、郡の中心地仙台併合させるのは認めがたいことであり、この合併構想は進まなかった。長町同様の事情である。1923年大正12年)に郡制廃止されたことで合併交渉進展し1928年昭和3年)に長町と共に原町仙台市編入合併された。合併時における原町人口は約1万人だった。この時、古くから続く原町の名称が消滅する事が問題になった仙台市会はこれを考慮し行政区画大字原町含める形でこれを解決した。これによって原町苦竹原町小田原原町南目誕生したまた、この合併と同じ年に、NHK仙台放送局ラジオ本放送開始した演奏所北一番町設けられ原町にはNHK原町ラジオ放送所設置された。 これと前後し1925年大正14年)に現在の仙石線に当たる宮城電気鉄道仙台から西塩釜まで開通し原町には陸前原ノ町駅置かれた。また既に開通していた東北本線に、中間駅として東仙台駅1932年昭和7年)に開業した1937年昭和12年)に日中戦争が起こると、軍事物資増産求められ日本各地で軍工廠建設されていった原町苦竹では、1940年昭和15年)に5181000平方メートルに及ぶ土地区画整理が行われ、ここに東京第一陸軍造兵廠仙台製造所建設された。この製造所では主に航空機用機関砲弾薬製造された。また原町小田原にも同様に陸軍造兵廠設置された。路面電車仙台市電環状線完成後、環状線から分岐する支線建設していったが、原町苦竹東京第一陸軍造兵廠仙台製造所があることから、支線一つである原町線は陸軍から早期開通求められていた。1942年昭和17年)に路線建設開始されたものの戦争による資材不足などの影響から遅遅として進まず原町まで開通するのは終戦後1948年昭和23年)である。1943年昭和18年)には、宮城電気鉄道線においてこの軍工廠への工員輸送のために新田駅移設する形で苦竹駅設置された。

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明治・大正・昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 09:23 UTC 版)

長町 (宮城県)」の記事における「明治・大正・昭和初期」の解説

1874年明治7年)に根岸村平岡村合併し長町成立する1878年明治11年10月21日名取郡発足し郡役所長町設置された。 1888年明治21年)に市制町村制公布され、翌1889年明治22年4月1日町村制の施行により、長町郡山村合併同時に仙台区一部だった宮沢編入し茂ヶ崎村(もがさきむら)として発足した。茂ヶ崎は長町から北西方向にある大年寺山別称であり、茂ヶ崎の地名は現在も残っている。 1887年日本鉄道現在の東北本線塩竈まで開通させたが、この当時長町に駅は置かれなかった。1894年日清戦争が起こると、仙台にあった陸軍第2師団軍用停車場長町設置させ、兵員ここから歳の歓呼のもと戦地へ向けて出征した1896年一般駅として長町駅開業する1904年日露戦争勃発すると、再び長町駅から兵員送り出された。 1892年長町青果市場設置された。この頃仙台周辺収穫され農産物水産物は、長町河原町原町堤町北山八幡町いずれか経由し、そこから小売商人によって仙台市内流通したその他に長町には米穀店薪炭店が多く集まっていた。後の1923年中央卸売市場法が成立すると、長町市場はこれの認可を受けることができなかったものの、産業組合法をもって青果市場機能維持した鉄道駅市場設置によって、茂ヶ崎村交通物流要衝として発達した1915年大正4年2月1日茂ヶ崎村町制施行改称し長町となり、1928年昭和3年4月1日宮城郡原町と共に仙台市編入された。この時点での長町人口は約1万人で、町制施行改称当時から約5割増えていた。仙台市長町原町編入合併する構想1918年大正7年)からあり、また長町住人合併望んでいた。しかし、当時郡制施行されていて、長町には名取郡郡役所が、原町には宮城郡郡役所存在した名取郡役所立場として、郡の中心である長町仙台市との合併認めがたく、長町編入構想は進まなかった。原町も同様である。郡制1923年大正12年)に廃止され郡役所監督なくなった。これによって合併交渉進んだのだったこの間1914年長町秋保を結ぶ秋保軌道開通し1925年には国鉄長町駅貨車操車場設置された。また、1936年には路面電車である仙台市電長町線が開通し長町はその終着点となった太平洋戦争中1945年7月10日仙台空襲では、長町アメリカ軍爆撃目標中心点から遠かった被災した

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明治・大正・昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 06:28 UTC 版)

湊山公園」の記事における「明治・大正・昭和初期」の解説

明治中期までにはかなりの範囲埋め立てられ清洞寺岩周辺田んぼとなっていた。明治37年1月西伯郡が3170坪のを総工費9840円で公園として整備することを決定し2年後明治39年12月竣工した。錦公園米子公園)と命名された。その際明治40年皇太子殿下山陰行幸が行われることから、御旅館となる鳳翔閣隣接地近習宿泊施設として公会堂公園内新設された。皇太子殿下お手植え湊山公園内に移植され石碑と共に現存している。鳳翔閣前の広場植えられていたソテツ移植され現存している。皇太子行幸の際に米子駅から鳳翔閣までの道路整備され、「記念道路」という名称で呼ばれていた。 大正12年郡制廃止に伴い米子町経営移行された。大正14年には拡張工事が行われることとなったこのころから桜の名所となっており、他にもやつつじなどが多数植えられていた。昭和2年市制実施された際にその記念として噴水整備された。真ん中には銅像があり、口から噴き出る構造となっていた。銅像は現在でも米子市児童文化センター前に保存されている。 中海沿いには漕艇場設けられ公園堤防スタンドとして市民レース見物するのが風物詩となっていた。また、ここを練習拠点としていた米子中学校十数回の全国制覇をするなどの活躍したため漕艇米子市民スポーツとなっていった。 この頃米子市内のいくつかの所を公園として定めているが、計画的に整備され既設公園はこの錦公園のみであり、残りは自然緑地などを公園として指定したものであった。その中には湊山と飯山範囲湊山公園称していたものがあった。

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