合併構想
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2000年(平成12年)、川口市・草加市・蕨市・戸田市と当市で構成される、「県南5市まちづくり協議会」において合併の研究が始められた。その後この合併構想から草加市、次いで戸田市が離脱し、2002年(平成14年)12月26日、残った3市によって任意協議会「川口市・蕨市・鳩ヶ谷市合併協議会」が結成され、翌年12月には法定協議会に移行した。2004年(平成16年)には新市名の公募が行われ、人口の圧倒的に多い川口の名を新市名とする「川口市」の案が1位となった。その後合併協議会は、この公募結果をもとにまず6点、さらに「川口市」と「武南市」(公募5位)の2点に絞って議決をとった。その結果、蕨市の委員が「武南市」を推薦し当市の委員の一部がそれに応じたため、武南市が新市名として選定された。 川口市の臨時市議会にて、この結果は民意を無視しているとして合併協議離脱を求める決議があり、同年8月、川口市が合併協議会からの離脱を表明、翌月には合併協議会は解散された。合併協議会解散後、鳩ヶ谷市は「合併に関する全世帯意向調査」を行い、「川口市との合併」を求める意見が過半数に達したこと、編入合併についても3割以上の賛成があったことから川口市に改めて合併協議を申し入れた。しかし、川口市は時期尚早とし、2007年2月の時点で合併に至らなかった。川口市との間で懸案となっている当市八幡木におけるし尿処理施設計画を、合併推進派である木下達則市長が受け入れ、3月定例市議会に市長直結の合併推進室を設立するなどの内容の条例が制定された。2007年8月には「鳩ヶ谷市合併推進市民の会」が設立された。 2009年1月、鳩ヶ谷市が川口市に対して再度の合併協議を申し入れたことに対し、川口市の岡村幸四郎市長は、同年7月の定例市議会で同年内に川口と鳩ヶ谷の2市で任意の協議会を設置する意向を表明した。11月に2市は任意協議会設置で合意し、12月には2市の市議会が「早期の任意協議会設置を求める決議案」を可決したことを受け、任意協議会「川口市・鳩ヶ谷市任意合併協議会」が設置された。 2010年6月-7月に川口市が合併の是非を問う住民アンケートの結果、合併推進を求める意見が過半数に達したことを受けて、2市の市議会は9月定例市議会で「川口市・鳩ヶ谷市合併協議会の設置について」の議案を可決して、法定協議会「川口市・鳩ヶ谷市合併協議会」を設置した。その第1回合併協議会で、「鳩ヶ谷市を廃し、その区域を川口市に編入する『編入合併』とし、合併の期日を2011年(平成23年)10月11日とする」ことが決定し、2011年1月28日に鳩ヶ谷市と川口市の合併協定書が調印された。その後、同年8月12日付の官報に総務大臣告示が掲載されたことで、この合併は正式に決定した。 2010年10月に行われた市長選挙と市議会議員選挙において、市長選挙では合併推進派の木下市長の再選となったが、市議会議員選挙では定員15名に17名が立候補をした。結果は、合併推進派は2名落選・慎重及び反対派の候補者が増え、合併推進派8名に対して慎重・反対派は7名となり拮抗した状態となった。選挙後初の市議会となった12月20日の市議会で、この問題を巡り合併に賛成する市民と反対する市民のそれぞれの市民団体から出されていた2件の請願について「合併を完結させる」を採択し、「吸収合併の是非を問う住民投票の早期実施」を不採択とした。両請願の裁決とも賛成7・反対7の同数となり、議長裁決で決まったことからもうかがえる。 合併協定書が調印された後の2011年2月18日、2月臨時市議会で「川口市への編入合併を県知事に申請する議案など合併関連4議案」と、合併に反対する市民団体からの直接請求により提出された「合併の是非を問う住民投票条例案」の採決が行われ、両議案の裁決とも賛成7・反対7の同数となり、またも議長裁決で「合併関連4議案」を可決。「合併の是非を問う住民投票条例案」を否決し、約61年ぶりに川口市との再合併が事実上決まった。 なお、鳩ヶ谷市は鳩ヶ谷町時代の1940年(昭和15年)に新郷村、神根村、芝村と共に当時の国策(皇紀2600年記念行事)によって半強制的に川口市へ編入合併されたが、第二次世界大戦敗戦後の1950年(昭和25年)に再度、当時の旧鳩ヶ谷町域の住民の民意により住民投票を行った上で同年11月川口市から分離し、鳩ヶ谷町を再建した。これにより、川口市への残留を決定していた旧新郷村域が川口の飛地となった。この飛地は1956年(昭和31年)に安行村が川口市へ編入合併されたことに伴い解消しているが、その結果として当市(1967年(昭和42年)3月に市制施行)は南側の一部が東京都足立区に接する箇所を除き、周囲一帯を川口市に取り囲まれる形状となっていた。 なお、旧新郷村が飛地になるにも関わらず川口市への残留を決定し、かつ安行村という川口市の北東部においてかつて存在していた村落は、地理的に鳩ヶ谷との合併の可能ではあったが、川口との関係をめぐり政情が不安定な鳩ヶ谷よりも、順調に経済が発展していた川口との合併を選択した。 この他1957年(昭和32年)3月にも県から埼玉県新市町村建設促進審議会に基づき川口市と鳩ヶ谷町(当時)の合併が勧告され、翌年3月には鳩ヶ谷町議会で「川口市との合併」議案を可決したものの、同年11月に実施された鳩ヶ谷町議会議員選挙で合併反対派の議員候補が多数当選し、12月の鳩ヶ谷町議会の定例議会で「川口合併取消」の緊急動議が出され賛成多数で可決されたため断念したということもあった。
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合併構想
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2007年7月10日、古賀市長は福津市長、新宮町長に2市1町(福津市、新宮町、古賀市)合併の提言を行った。 なお、新宮町に関しては福岡市との合併構想もある。
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合併構想
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2001年4月に朝霞市・志木市・和光市・新座市の4市で法定合併協議会を設置し、新市役所を朝霞市に置くこと、2005年3月までに合併することなどを決定していたが、4市の住民投票で和光市が反対多数(他3市は賛成多数)となり協議会は解散した。再度2003年に和光市を除く3市で任意協議会を発足させたが、合併特例法期限内の日程に間に合わないことから協議会は解散した。4市の合併では人口約45万人で中核市を目指すとしていたが、さらに広域合併構想として、同じ地域圏(南西部地域)の富士見市、ふじみ野市、三芳町や、市域の一部が元埼玉県である東京都清瀬市を合併して約80万人の政令指定都市を目指す構想もある。なお合併を見越して1998年に4市の消防本部が統合され埼玉県南西部消防本部が誕生している。
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合併構想
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詳細は「北総市」を参照 2003年、印西市・印旛村・本埜村と2市2村の合併が検討され、2003年4月1日には「印西市・白井市・印旛村・本埜村合併協議会」が設立されていたが、2004年7月の住民投票で反対票が賛成票の倍以上を占める結果となり、合併計画は白紙となった。
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