合併構想破綻後の3行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/12 09:31 UTC 版)
徳陽シティ銀は、合併相手に逃げられた銀行として、イメージダウンと経営に対する不安は必至の情勢となった。構想破綻後も縮小均衡で運営されたていたが、金融破綻が相次いだ1997年(平成9年)11月、力尽き破綻。仙台銀行を中心とした金融機関に営業譲渡され、2002年(平成14年)4月には清算業務も終了した。 北日本銀は、合併を推進していた杉谷頭取の責任問題が生ずるかに思われたがそれは現出せず、多年にわたり同行の実力者として君臨した熊崎俊二郎相談役が5月31日付で辞任した。また、1999年(平成11年)には合併騒動の際、仙台支店長を務め、同地区での撤回運動の旗振り役を務めた佐藤安紀常務が頭取に昇格した。 殖産銀は、経営陣が合併実現に対して最も前向きであり期待も大きかったので、破綻に対する失望は大きかった。合併解消によるダメージこそなかったが、再び合併を模索するのか、単独での生き残りを目指すのか経営戦略の見直しにせまられた。1997年(平成9年)には東証2部への上場は実現するが、規模拡大への希求の念は途絶えることなく、1999年(平成11年)12月、同県の地方銀行である荘内銀行との合併構想であるミライオン銀行構想が現出するも、これも同行従業員組合の反対やシステム統合問題がネックとなり合併実現に至らず、叶内頭取は2度にわたる合併破綻を招来したとして引責辞任、経営の表舞台から去った。しかし2007年(平成19年)に、同県の第二地銀である山形しあわせ銀行と経営統合、きらやか銀行が誕生した。
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