合併構想発表までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/12 09:34 UTC 版)
「ミライオン銀行」の記事における「合併構想発表までの経緯」の解説
バブル経済崩壊後、荘内銀行、殖産銀行とも不動産関連融資は少ないものの、長期不況による貸出資産の不良債権化と、山形県内の数少ない優良貸出先を地元4行が競って奪いあうことから、総資金利ザヤも2行とも低い状態にあった。また、1999年(平成11年)3月期決算は、山形銀行以外の地元3行は、多額の不良債権処理による大幅な赤字を計上する事態となっていた。 そのような中、両行とも個性的な経営戦略で話題に事欠かず、時代を先取りした積極経営に大きな共通点があり、相性の良さが合併へと結びついた。さらに、富士銀行と親密な関係にあった山形しあわせ銀行も最終的には合流するのではないかとの報道もなされたが、しあわせ銀は静観の姿勢を最後まで崩さなかった。また、これに先立って1999年(平成11年)8月に発表された第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行のみずほFGへの統合が、親密地銀間にも広がったとの報道もされた。
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