明治・大正・昭和
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手本引きの起源は意外と新しく、明治時代に入ってから、京都府愛宕郡吉田村140(現・京都市左京区吉田本町)に一家を構える初代・会津の小鉄こと上坂仙吉をはじめ、いろは幸太郎こと長谷川伊三郎や柿木松之助ら侠客たちによって、江戸時代から遊ばれていた賽子賭博「樗蒲一(ちょぼいち)」や独楽賭博「お花こま」を進化発展させる型で考案された。当時勢力下にあった京都、大阪、神戸、奈良、大津、和歌山の常盆(常設賭場)を中心に西日本の都市や温泉街へと伝播していった。常盆からの上納金は、1日平均550円(現在の価値で550万円以上)であったという。 明治13年(1880年)7月17日、日本で最初の西洋流の近代刑法が太政官布告第36号刑法(4編430条)として公布され、明治15年(1882年)1月1日から施行された。明治16年(1883年)4月16日、上坂仙吉は明治政府による博徒狩りで捕えられ、重禁錮10ヵ月・罰金百円(現在の価値で凡そ百万円)の判決を受け服役した。 明治18年(1885年)、西洋かるた(トランプ)の輸入販売が公認されると、翌年の明治19年(1886年)には花札やメクリカルタの製造販売が事実上解禁となった。明治22年(1889年)9月23日、セメント販売業(石灰問屋「灰岩本店」、後に「灰孝本店」へと社名変更)を営む山内房次郎は、京都市下京区正面通り加茂川筋西入鍵屋町12番戸(現・下京区鍵屋町342)に実父の福井宗助の裏稼業であった骨牌製造を引き継ぎ、丸福商店(後の任天堂)を構えて販売した。京都周辺の盆に売り込んだことで注文が入るようになった。さらに、近代煙草産業の始祖・村井吉兵衛と交渉して煙草流通網を利用することに成功、大統領はトップブランドの地位を確立して全国的に広く知られるようになる。明治35年(1902年)4月5日、明治政府は北清事変以後の財政難を理由に骨牌(かるた)税法(明治35年法律第44号)を制定すると、骨牌一組につき一律20銭(現在の価値で約620円)の収入印紙を製造業者に事前購入させ、商品に添付するよう義務付けた。この年、山内房次郎は日本初の国産トランプを製造している。 明治35年(1902年)6月、10代後半から大阪や京都の盆に出入りしてきた鳶梅吉は、初代・会津の小鉄の若頭・長谷川伊三郎に師事した後、実弟である阪口卯之助(阪卯)、鳶藤治郎、鳶亀吉らの協力を得て、29歳で酒梅組を結成。大阪市南区難波新地5丁目56(現・浪速区元町3丁目)にあった自宅まで常盆にしている。その勢力は直系乾分が140名、配下は総勢2000人ともいわれ、盆は大いに繁盛した。 大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災の頃になると、手本引きは東日本にまで波及しており、昭和5年(1930年)頃には全国的な流行を見せる。第二次世界大戦に突入すると、客足が遠のき下火になった。戦時中の盆は厳重な灯火管制と夜間爆撃を警戒して昼間に開帳されることが多かった。終戦後は、警察の要請に応じて治安維持に協力した組織はお目溢しで盆を開けるようになり、復員兵や失業労働者たちが賭客として集まり、再び活況を呈すようになる。 昭和20年(1945年)8月15日、二代目山口組の若衆だった田岡一雄は、昼前から神戸市東灘区御影町にあった山丁五島組(組長・大野福次郎)の盆で手本引きをしていて、そこで敗戦を告げる玉音放送を聴いている。田岡一雄は、戦後の混乱で警察力が弱体化して治安の悪くなった神戸の街と闇市を第三国人から守るための自警団を組織して頭角を現わすと、山口登の死後しばらく空位であった組長へ田岡を推す声が高まり、昭和21年(1946年)10月13日、神戸市湊川新開地にあった「ハナヤ食堂」(現・神戸市兵庫区新開地2丁目。店舗は明石市桜町11-28へ移転)において、三代目山口組組長を襲名した。このときの組員は、先代の舎弟6人、先代の若衆14人、田岡一雄の直系若衆13人の総勢33人だった。 田岡一雄の舎弟だった小西豊勝は、大東亜戦争終結直後から関西汽船の別府航路で船内賭博を開帳していたが、すぐに警察の取締りで船内賭博ができなくなり、別府市海門寺町に移って、小西組(現・小西一家)を興し、街頭賭博を行うようになる。このことで、別府市議会議員・井田栄作を首領とする的屋系組織・二代目井田組との対立を生み、昭和24年(1949年)11月3日、小西組の石井一郎(本名・山川一郎)ら刺客4人が、別府市松原町にあった「松濤旅館」の前で井田栄作を襲撃して瀕死の重傷を負わせる事件を引き起こした。昭和25年(1950年)10月21日、法務府特審局は団体等規制令を適用することで小西組に解散を命じ、小西組は別府市から神戸市への撤退を余儀なくされる。昭和32年(1957年)3月27日、別府温泉観光産業大博覧会の会場で、二代目井田組組員が石井一郎を拳銃で狙撃して重傷を負わせ、4月2日には、石井組組員が井田栄作配下の別府市会議員・堀泰二郎を刺殺。4月8日には、石井組組員7人が井田邸に猟銃や拳銃を発砲して、その後2ヵ月間に渡り、県内外の暴力団員約400人が両派(石井組=三代目山口組,二代目井田組=本多会)に集結して、別府抗争事件へと発展した。昭和40年(1965年)5月、小西豊勝は賭博のもつれから本多会(後の大日本平和会)組員に刺殺され、跡目は実弟の小西音松に継承された。 昭和20年(1945年)10月、大阪市浪速区木津勘助町3丁目(現・敷津西)にあった大正時代から続く博徒系組織・有田組(組長・二代目三阪こと有田円太郎)の盆に出入りしてきた松田雪重は、大阪市西成区に松田組を興した。労働者中心の暴力的かつ高圧的な賭場運営とは一線を画して、負けた賭客に帰りの電車賃や飯代をそっと渡す心遣いが評判となり、西成区内だけでも5箇所の常盆を開設して勢力を拡大、500人規模の組織へと急成長を遂げた。西成区今池22(現・太子2丁目3-19)にあった本家・事務所2階の盆は40畳の広さを誇り、全国の親分衆が出入りする総長賭博がしばしば開帳された。昭和44年(1969年)3月6日に松田雪重が66歳で病没すると、跡目は甥の樫忠義に継承された。 昭和24年(1949年)4月、綱島一家五代目・鶴岡政次郎の代貸だった稲川角二(後の稲川聖城)は、山崎屋一家四代目・石井秀次郎の跡目を継承する形で、熱海市咲見町に稲川一家を興すと、湯河原町の旅館「島田旅館」を常盆にして莫大な利益を上げた。昭和31年(1956年)6月、鶴岡政次郎の勢力圏にあった博徒団体を糾合して、鶴政会(後の錦政会,現・稲川会)を結成。神奈川県や静岡県を中心に東海道の「稲川時代」を拓き、さらに岐阜県や熊本県にまで勢力を拡大させ、「関東の雄」としての地盤を築いた。稲川角二の常盆での種目は花札を用いたアトサキがメインで、稀に手本引きが行われたという。 昭和30年代には、本引き専用の張札が各花札メーカーから続々と市販されるようになる。昭和32年(1957年)6月14日、骨牌税法を全文改正したトランプ類税法 (昭和32年法律173号) が施行されたが、繰札と張札はその対象外とされ、非課税となっている。その後、トランプ類税は、平成元年(1989年)の消費税導入に伴う間接税の整理により廃止された。 昭和35年(1960年)6月26日、稲川角二は、錦政会(現・稲川会)幹部で林一家総長の林喜一郎から、自民党の安保委員会がアイゼンハワー大統領来日に備えた活動資金を必要としていたため、政財界のフィクサーである児玉誉士夫が、伊豆市長岡の旅館2階の盆で、財界人を相手に6億円近い金を掠め取ったとの報告を受ける。その後、稲川角二は世田谷区等々力6丁目29にあった児玉誉士夫邸を訪ねて恫喝したが、「自分は自民党に貸しはあっても借りはない」と逆に一喝される。これが縁で児玉誉士夫は稲川角二の実質的な親分となり、鶴政会顧問に就任している。 昭和38年(1963年)12月、田岡一雄は山口組直系組長会において、「これからのヤクザはバクチやその寺銭では食えなくなるから、皆事業を持つようにすること」と直参組長たちにフロント企業(合法企業)の経営を強く呼びかけた。 昭和39年(1964年)2月13日、警視庁に警視総監を委員長とする対策会議が、その下に刑事部長を長とする組織暴力犯罪取締本部が設置されると、都道府県警察が一体となって、いわゆる第一次頂上作戦を実施。違法な資金獲得活動を狙った取締りを強化した。それ以降、証言さえあれば非現行でも逮捕するようになり、盆茣蓙が鋲で固定されていたり目木があれば、現金の有無に拘らず玄人賭博の物的証拠とされ、常盆は壊滅的な打撃を受けて激減した。 昭和39年(1964年)3月19日、神奈川県足柄下郡箱根町塔之沢92の温泉旅館「紫雲荘」で、住吉一家(現・住吉会)三代目・阿部重作の引退に伴う総長賭博を錦政会(現・稲川会)会長・稲川角二と上萬一家・貸元で住吉一家四代目を継承した磧上義光が共同で開帳すると、関東の代紋違いの一家の総長や幹部らが30人を超えて馳せ参じた。一晩で動いた総額が約5億5200万円、祝金として阿部重作のもとに約4400万円が届けられたという。このことは、翌年の昭和40年(1965年)2月17日の組織暴力犯罪取締本部を中心とする家宅捜査で発覚し、同年の2月27日には稲川角二が碑文谷警察署へ出頭、賭博開帳図利容疑で逮捕され、懲役3年の実刑判決が確定した。 昭和40年(1965年)1月14日、錦政会(現・稲川会)幹部・林喜一郎、同幹部で山川一家総長・山川修身ら5人が賭博開帳容疑で指名手配されると、錦政会会員16人が逮捕された。昭和43年(1968年)から稲川角二が服役した関係で、その3年間は林喜一郎が錦政会会長代行を務めた。 昭和45年(1970年)8月3日、大阪府警察捜査4課(暴力団対策課,通称「マル暴」)は、同年の2月14日から15日にかけ、西成区今池41(現・天下茶屋北1丁目3-4)にあった松田組系愚連隊組織・互久楽会事務所2階の常盆で手本引きをしていたとして、奈良市明日香村村会議長・島田弥八郎を常習賭博容疑で逮捕するとともに、賭客として同席していた四代目酒梅組組長・中納幸男を指名手配している。島田弥八郎は、帳付役の互久楽会常任参与・平沼高男と幼馴染で、数年前から盆に出入りしており、この逮捕により村会議長を辞職することになるが、昭和48年(1973年)7月2日には再び村会議長に返り咲いている。 昭和47年(1972年)6月17日、神奈川県警察捜査4課は、川崎市高津区二子772にあった高木實方において、花札を使った絵本引きをしていたとして、博徒集団・加藤組元組員の西山勁を常習賭博容疑で逮捕した。横浜地方裁判所川崎支部では、賭金に供した金額が約2万円にすぎなかったことから、常習性はなかったとして、懲役3ヶ月の判決を下している。 昭和47年(1972年)10月、竹中正久は、姫路市十二所前町28にあった竹中組事務所3階大広間に全国から錚々たる親分衆を集め、5,6日間ぶっ通しの総長賭博を開帳すると、総額で約15億円が動き、寺銭は約1億円に昇ったという。竹中正久の発案により、その日付は最後まで伏せるように根回しされていたため、兵庫県警察暴力対策2課は開帳日を特定できずに逮捕者全員が無罪放免となり、罪に問われることはなかった。 昭和48年(1973年)、山本集は、東淀川区淡路新町に諏訪一家系淡路会内山本組を興し、週2回のペースで盆を開帳すると、一晩の寺銭は約500万円に昇ったという。平成元年(1989年)10月10日、山本組を解散すると画家へと転身。代表作「雄渾(ゆうこん)」 が関西国際空港正面玄関に掲げられている。 平成23年(2011年)12月16日、山本集は病没。享年71。 昭和48年(1973年)9月28日、三代目山口組本部長で小田秀組組長の小田秀臣は、姫路市内の竹中組事務所3階大広間に稲川会幹部らを招いて総長賭博を開帳すると、総額で約50億円が動いた。兵庫県警察暴力対策2課による検挙者は43人に昇ったが、決定的な証拠が得られず、全員が起訴猶予となっている。 昭和62年(1987年)11月5日、小田秀臣は病没。享年57。 昭和49年(1974年)2月5日、神奈川県警察捜査4課と鶴見警察署は、前年の9月15日から16日にかけ、横浜市中区宮川町3丁目68にあった稲川会山田一家植草組事務所に、組長や大幹部クラスの他、近所のパチンコ店や麻雀店の経営者などを加えた10人余りを集め、手本引きで約1000万円の利益を上げていたとして、稲川会木島一家総長・木島無名ら5人を常習賭博容疑で逮捕するとともに、稲川会山田一家植草組組長・植草昭一ら3人を指名手配している。 昭和50年(1975年)7月24日、松田組系溝口組(組長・溝口正雄)は大阪市北区曾根崎上1丁目10宝山ビル地階にあったスナック喫茶「ヒット」を常盆にしており、そこへ賭客として来た山口組系佐々木組(組長・佐々木道雄)内徳元組(組長・徳元敏雄)舎弟頭・切原大二郎らとのトラブルが発端となって大阪戦争へと突入した。それにより、最盛期30数ヶ所もあった松田組の常盆は全て閉鎖へと追い込まれ、松田組の常盆で使用する張札などの用具を供給してきた生野区腹見町2丁目13(現・生野区小路東5丁目1-1)にあった小原商店本店は経営難に陥った。昭和53年(1978年)11月1日、三代目山口組若頭で山健組組長・山本健一と若頭補佐で山広組組長・山本広、本部長・小田秀臣は、神戸市灘区篠原本町4丁目3-1(現・六代目山口組総本部)の田岡邸に報道陣を招くと、一方的に抗争終結を宣言した。それに呼応するように、11月22日には松田組も大阪府警察に終結宣言を提出すると、組織の建て直しを図って「松田連合」と改称したが、傘下組織の相次ぐ離脱で弱体化が進み、昭和58年(1983年)5月25日、二代目松田組組長・樫忠義は、松田連合を解散した。その後、堅気となった樫忠義は、大阪東部市場輸送協力組合の理事長に就任するなどして成功を収めたが、平成4年(1992年)には会社を売却。平成8年(1996年)8月18日に自殺している。享年58。 昭和51年(1976年)3月6日、山本健一、大平一雄(本名・杉浦一雄)、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが、神戸市中央区多聞通2丁目5-13にあった山口組本部2階に集結して、徹夜で総長賭博を開帳した。細田利明が胴元を務め、動いた総額が推定で2億5000万円。寺銭1500万円のうち、450万円が大平一雄へ渡り、そのうちの225万円が山本健一へ渡った。同年の3月20日にも同メンバーが山口組本部2階に再集結して総長賭博を開帳。竹中正久が胴元を務め、加茂田重政の負けが通算で3500万円になったという。このことを知った三代目組長・田岡一雄は、山本健一、竹中正久、大平一雄、小西音松を入院先の関西労災病院新館517号室に呼び出して厳重注意をした。この事実を掴んだ兵庫県警察暴力対策2課は、昭和53年(1978年)11月22日に山本健一、竹中正久、大平一雄や細田利明ら14人を指名手配すると逮捕している。本部長だった大平一雄が全ての責任を引き受けて執行猶予付きの懲役刑となり、他の者は罰金刑となった。 昭和52年(1977年)11月2日、神奈川県警察捜査4課と神奈川警察署は、同年の9月14日から15日にかけ、神奈川区亀住町にあった左官業・沢地正の自宅に顔見知りの商店主10数人を集め、手本引きの盆を開帳、総額で6000万円の現金が動き、約300万円の利益を上げたとして、稲川会山田一家門脇組幹部・宮原楯二ら4人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。 昭和55年(1980年)2月12日、警視庁捜査4課と渋谷、目黒、荏原警察署は、前年の9月4日から5日にかけ、世田谷区千歳台にあった住吉一家(現・住吉会)向後睦会福島組が管理する部屋に賭客十数人を集め、手本引きで約500万円の利益を上げ、さらに都内の組員自宅などでも約30回以上に渡り盆を開帳、総額で20億円近くの現金が動き、約2億円の利益を上げたとして、福島組組長・福島靖倫ら8人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。 昭和55年(1980年)3月上旬と中旬、竹中正久は、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会会長補佐・林喜一郎、忠政会会長・大森忠明、松正会会長・山本真喜夫らを招待し、竹中組若頭補佐・大西康雄宅などで2回に渡って賽本引きの総長賭博を開帳すると、両日で3、4億円の金額が動いた。この事実を掴んだ兵庫県警察暴力対策2課は、昭和56年(1981年)10月29日に竹中正久、竹中武、杉本明政、矢嶋長次、長谷一雄、林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らを逮捕している。警察では寺銭を約1億5000万円と推定、大阪国税局に所得税法違反容疑で通報している。昭和56年(1981年)7月23日に田岡一雄が病没。享年68。翌年の昭和57年(1982年)2月4日、山本健一が病没。享年56。同年の8月15日、田岡邸の隣で総長賭博が開帳された際、四代目山口組組長に山本広を推す佐々木道雄と、それに反対する竹中正久が口論となり対立が表面化した。 昭和59年(1984年)3月12日、警視庁捜査4課と宮坂警察署は、前年の11月23日から24日にかけ、京都市東山区の民家に京都や東京の会社役員や商店主など賭客20人を集め、手本引きの盆を開帳、約1500万円の利益を上げたとして、下京区東高瀬川筋上ノ口上る岩滝町176-1(現・下京区岩滝町223会津会館)にある会津小鉄会の事務所など11ヶ所を京都府警察の協力を得て一斉捜索した上で、三代目会津小鉄会総裁・図越利一ら最高幹部を含む8人を賭博開帳図利容疑で指名手配している。会津小鉄会の盆のことを的屋の符牒(隠語)を使って「オキジョウ(七条という意味)」と呼んだ。昭和61年(1986年)7月、図越利一は、三代目会津小鉄会総裁代行兼理事長・高山登久太郎(本名・姜外秀)を四代目会津小鉄会会長に据え、平成10年(1998年)7月7日、京都で歿している。享年84。 昭和59年(1984年)6月8日、兵庫県警察暴力対策2課と姫路警察署は、竹中組事務所への家宅捜索を行った。容疑は、2年前の昭和57年(1982年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、8月に竹中組組員が賽本引き賭博に加わっていたというものだった。 昭和59年(1984年)7月10日、竹中正久が四代目山口組組長を襲名。これを不服とする三代目山口組組長代行・山本広が中心となり、ひと月前の6月13日には山口組を離脱して一和会を結成。8月5日、和歌山県東牟婁郡串本町にあった山口組系松山組(組長・松山政雄)内岸根組組長・岸根敏春が経営する盆で、多額の借金を抱えていた一和会系坂井組(組長・坂井奈良芳)串本支部若頭補佐・潮崎進を岸根敏春が串本町の路上で刺殺した。この事件をきっかけに山一抗争が勃発すると、8月23日、竹中正久が義絶状を友誼団体に送り、一和会に対する実質的な絶縁を表明したことで、両組の対立は深刻なものとなった。昭和60年(1985年)1月9日、5年前の昭和55年の賭博事件の上告が棄却され、竹中正久の懲役5ヶ月(未決勾留日数が差し引かれ実際は50日程)が確定すると、竹中正久は2月から服役する予定だったが、1月26日、一和会二代目山広組系組員・長尾直美、田辺豊記、立花和夫らに、内縁の妻・山坂しのぶの住む吹田市江坂町2丁目4-25にあるマンション(GSハイム第2江坂)1階エレベーター前で銃撃され、意識不明のまま翌27日に死亡した。享年51。 昭和59年(1984年)8月27日に放送したNHK特集「山口組 知られざる組織の内幕」では、西成区天下茶屋北1丁目4にあった酒梅組系陸野組の常盆(通称:たぬき)の摘発現場が映し出され、この頃は大阪だけでも30箇所以上の盆が開帳されていたことが報告されており、盆茣蓙の下に仕込んだ電極を操作することで、胴がサイコロの出目をコントロールしていたことなど、イカサマの実態が暴かれている。 昭和60年(1985年)4月10日、警視庁捜査4課と府中警察署は、渋谷区広尾の高級マンションで手本引きをしていた住吉連合会(現・住吉会)系幹部・周文吉ら9人を現行犯逮捕している。 昭和61年(1986年)7月21日、警視庁捜査4課と巣鴨、高島平警察署は、同年の4月12日と22日の2回、豊島区巣鴨の飲食店2階と住吉連合会(現・住吉会)滝野川一家堀越睦会幹部のマンションに稲川会幹部や不動産業者、ゲーム機販売業者ら10人を集め、手本引きの盆を開帳、総額で約4億9000万円の現金が動き、約1600万円の利益を上げていたとして、堀越睦会幹部ら6人を賭博開帳図利容疑で逮捕している。 昭和62年(1987年)5月21日、警視庁池袋警察署は、同年の2月7日夜から8日朝にかけて、豊島区池袋2丁目928番地パラッツォ田中201に賭客を集め、手本引きの盆を開帳、総額で約9600万円が動き、約500万円の利益を上げていたとして、極東関口会(現・極東会)田中一家高田会幹部・外崎二三男を賭博開帳図利容疑、賭客の喫茶店経営者ら7人を単純賭博容疑で逮捕している。外崎二三男は1月から4月に渡って、マンションやホテルを使って十数回の盆を開帳して、総額5千万円の寺銭を稼ぎ、組織の運営資金に充てていた。 昭和63年(1988年)5月31日、警視庁捜査4課と月島、荏原、四谷警察署は、都内のホテル客室で大規模な手本引きの盆を開帳、判明しているだけでも3晩で約10億円が動き、2400万円の利益を上げていたとして、稲川会系幹部ら5人を賭博開帳図利容疑で、賭客11人を常習賭博容疑で逮捕している。 昭和63年(1988年)12月13日、四万十市立下田中学校教諭・山口周三(51歳)が、宿毛市内のマンションで山口組系二代目豪友会(会長・岡崎文夫)の組員らと賽本引きをしているところを宿毛警察署署員に現行犯逮捕された。そのため、山口周三は取調室で捜査員立ち合いのもと、2学期の通信簿を作成することとなり、教育関係者に衝撃を与えた。
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