稲川時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 02:54 UTC 版)
文化8年(1811年)、駿府城間近の有度郡稲川村(静岡市駿河区稲川、いながわ)浅間神社社家稲河家の株を買い取り、長男の清臣に継がせ、自身も後見人として稲川村に移住した。この時、字を玄度、名を治憲、号を稲川(とうせん)とした。 同年3月、駿府町奉行服部貞勝に「駿河大地誌」編纂事業の総裁を命ぜられた。稲川の詩文の才だけではなく、予ての郷土に対する関心があったことも買われたと推測される。この期間江戸で林述斎と交わったが、林述斎は幕府事業として『新編武蔵風土記稿』を編纂中であり、地誌編纂について教えを乞うたものと思われる。事業は翌年11月貞勝の松前奉行転任により頓挫したが、「駿河国巡村記」19冊が残った。
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