稲川会と会津小鉄会による仲裁と抗争終結
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「山一抗争」の記事における「稲川会と会津小鉄会による仲裁と抗争終結」の解説
1986年2月14日にホテルニューオータニで、関東二十日会と関東神農同志会の合同食事会が開催された。合同食事会前の挨拶で、住吉連合副会長西口茂男は、「稲川会会長稲川聖城が山口組と一和会の手打ちのために努力している」と語った。前年3月24日に一和会特別相談役大川覚の長男が竹中組組員に襲撃されて重傷を負ったが、長男は(一和会とは無関係だったものの)的屋だったことから、その煽りを食らって全国の主要な祭礼から的屋が締め出しを受け死活問題になっていた。合同食事会が終わった後、稲川は会津小鉄会総裁代行高山登久太郎、倭奈良組組長橋本正男らと山一抗争終結について話し合った。 2月には、稲川と石井隆匡会長が病気療養中の田岡文子を見舞い、次いで山口組幹部と会って一和会との和解を打診。稲川会からの打診に、中西一男や渡辺芳則らは「昭和61年(1986年)3月13日までに、山口組内を和解の方向でまとめる」と回答した。中西は、服役中の豪友会会長岡崎文夫と岡山刑務所に拘置中の竹中武(1985年2月1日に福崎インターチェンジで、兵庫県警の機動隊と岡山県警の刑事に、野球賭博開帳で逮捕されていた)を説得、岡崎は終結を了承したものの竹中武は一和会との和解を拒否した。 6月5日に石井が中西ら山口組幹部と会い再度一和会との和解を要請、15日に開かれた臨時直系組長会で中西は山一抗争の終結を受け入れる意向を示した。明けて1987年2月4日に山口組直系組長会が開かれ、山一抗争終結への意向を質した山口組幹部に対し、竹中武は直系組長会での採決を逆提案。しかし提案を黙殺され、2月8日に山口組本家2階大広間で開かれた緊急山口組直系組長会にて、中西一男は山一抗争終結の決定を指示した。翌9日に中西ら山口組幹部は上京し、石井に抗争終結決定を連絡。石井は10日に京都へ高山を訪問し、高山を通じて山本広ら一和会直系組長34人に山口組の抗争終結決定を伝えた。山本も一和会の山一抗争終結決定を高山に伝え、取り敢えずは抗争は終結した。
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