大西康雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:51 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動大西 康雄(おおにし やすお、1947年10月22日[1] - )は、日本のヤクザ。指定暴力団・六代目山口組若中、大西組組長、元後藤組副組長、元竹中組若頭。兵庫県加西市出身。
来歴
昭和期
昭和22年(1947年)、兵庫県加西市に出生。高校中退後に18歳で三代目山口組系竹中組幹部の若衆となり、竹中組本部で4年半の部屋住み修業を行った。昭和45年(1970年)、自身の親分が竹中組から破門されたのを機に、竹中組・竹中正久組長から盃をもらい、竹中組若中となった。昭和47年(1972年)、竹中組若頭補佐に就任。
昭和55年(1980年)3月上旬と中旬、竹中は、矢嶋長次、長谷一雄、稲川会・林喜一郎副会長、忠政会・大森忠明会長、松正会・山本真喜夫会長らを招待して、大西康雄宅などで、2回に渡ってサイ本引き賭博を開いた。両日で賭け金3、4億円が動いた。
昭和60年(1985年)1月26日、竹中は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、二代目山広組若頭・後藤栄治に指揮された二代目山広組組員・田辺豊記、同組組員・長尾直美、同組組員・立花和夫に銃撃された。
同年1月27日午後11時25分、竹中が死去。同年12月、大西は竹中組(組長・竹中武)の若頭に就任した。
平成期
平成元年(1989年)、渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年6月5日、山口組定例会で竹中組の山口組脱退が発表された。
その後、大西は竹中組から脱退した。五代目山口組 後藤組・後藤忠政組長が、後藤組副組長に据えた。兵庫県姫路市を本拠にした。
平成4年(1992年)2月、渡辺芳則は、大西組・大西康雄組長に盃を与え、山口組直参にした[2]。
平成20年(2008年)の7月に病気を理由に引退。大西組は解散となり、組織の継承はなかった[1]。
出典
- ^ a b 六代目山口組完全データBOOK 2008年版 : 『2008年 引退した男たちの肖像>【大西組】大西康雄』 (p.152–153) 2009年2月 メディアックス ISBN 978-4-86201-358-3
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6 のP.6
参考文献
- 溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4
- 溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2
- 『実録 修羅の群像 「菱」の侠たち』 日本ジャーナル出版〈週刊実話別冊〉、2004年。
- 『別冊実話時代 丸ごと一冊六代目山口組』 メディアボーイ、2006年。
- 「連載第6弾 山口組「直系組長99人」の武勲戦歴! ~阪神ブロック篇~」 『週刊アサヒ芸能』2005年10月20日号(第60巻第40号通巻3026号)、徳間書店、2005年、pp.34-36。
大西 康雄(おおにし やすお)
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「代紋TAKE2」の記事における「大西 康雄(おおにし やすお)」の解説
二代目海江田組若頭・大西組組長。組内外から高い評価を受けていたやり手で、二代目海江田組では実質的な運営を担っていた。「前の人生」では氏家の三代目襲名後、氏家の舎弟頭となった。「後の人生」では組内で台頭してきた丈二に対し、山崎と共に何かと目をかけていたが、菊水会との抗争でヒットマンに襲われ、相討ちに持ち込んで死亡した。
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