画家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 12:42 UTC 版)
江藤はやがて当初の有田焼販売には関心を失い、画家を志して、28歳の1895年2月美術専門学校アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学。特にアメリカ印象派画家として指導の立場であったロバート・ブラム(Robert Blum), ジョン・ヘンリー・トワックトマン(John Twachtman)に師事し、油絵、印象派の画法を学んだ。生徒であったエルマー・マックレー(Elmer McRae)とも既知になった。彼が履修した1894~95年のコースの記録があり、それによると登録名はガンニジェロ・イェトー、科目の一部を挙げると午前の部のウィリアム・メリット・チェース講師の油彩実技(M.P.)、アービング・ワイルス講師のスケッチ(W.S.)などであった。源次郎は新たにアトリエを5番街14番通り近くのビルの一室に構えた。 1896年より、ジョン・トワックトマン師の誘いで、コネチカット州コスコブの賄い付き宿舎ホーリーハウス(現グリニッチ歴史協会所有の博物館)における同美術専門学校のサマークラスに参加し、1901年までホーリーハウスに滞在した。当時、マンハッタンからコスコブまでは既に鉄道が開通され、足の便があった。またコスコブは当時まだ植民地時代の古風な家が立ち並び、広いミアナス河の河口に位置し、風光明媚なロンガイランド・サウンドに面していて、豊富な画題となる景色を提供する場所であった。このコスコブのホーリーハウスにおける画家の集まりが後「コスコブ芸術コロニー」(Cos Cob Art Colony)と呼ばれるようになり、アメリカ最初の印象派の発祥の地となった。西洋画・油彩を勉強する中で、同クラスのアメリカの若い画家達に日本画の画法・特徴なども教えている。当時既に名声を博しているジョン・トワックトマン、チャイルド・ハッサムらも触発され、日本の画法を取り入れた絵が何点か残っている。 1897年には友人となったエルマー・マックレーとともに同校でコスコブ展覧会開催を手伝っている。また精力的に水彩画を描き、ニューヨーク水彩画クラブ(New York Water Color Club)、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン(The National Academy Design)、フィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミー(The Pennsylvania Academy of the Fine Arts), フィラデルフィア・美術・クラブ(The Art Club of Philadelphia)などに出展している。
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