画家を目指す
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1925年9月17日、通学に使用していたバスが路面電車と衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した。フリーダも生死の境をさまよう重傷で、3か月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるようになった。痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという。 フリーダの事故により、アレハンドロとの仲は自然消滅のように破綻し、その孤独感はフリーダを絵画へさらにのめり込ませる一因にもなった。1926年から1928年の間にフリーダは十数枚の作品を制作している。通常の生活が送れる程度に回復した1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党する。 そこで写真家ティナ・モドッティの紹介で画家ディエゴ・リベラと出会った。リベラの絵に感嘆したフリーダは闘病時代に描いた自分の作品を見せ、リベラに意見を求めた。リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けた。 これを契機に二人の仲は急速に接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した。年の差やリベラの外見上の印象から、フリーダの両親からはあまり祝福されなかった。なお彼女は両性愛者であり、米国の画家、ジョージア・オキーフと関係があったとも言われている。 二人は最初メキシコシティ中心部にあるアパートを借りて住んでいたが、リベラにコルテス宮殿(英語版)の壁画作成の仕事が入ったため、同年にクエルナバカ市へと移っている。 翌年11月、リベラに今度はカリフォルニア美術学校(現サンフランシスコ芸術大学)から壁画作成の依頼があり、サンフランシスコへと居を移した。その後も仕事の都合でニューヨーク、デトロイトなどを転々とした。 リベラのこうした無節操な仕事の選び方はメキシコ共産党の反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された。この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている。 1930年にフリーダは妊娠したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産となった。1932年、1934年にも流産している。 これらの出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなった。1933年12月、メキシコに戻った二人は、知人の建築家ファン・オゴールマン(英語版)に頼んでメキシコシティの南郊外サン・アンヘルに家を建てて貰い、そこに落ち着くこととなった。
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