画家を目指すとは? わかりやすく解説

画家を目指す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 01:57 UTC 版)

フリーダ・カーロ」の記事における「画家を目指す」の解説

1925年9月17日通学使用していたバス路面電車衝突し多数死傷者が出る事故発生したフリーダ生死の境さまよう重傷で、3か月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、その後事故の後遺症で背中右足痛みにたびたび悩まされるようになった痛み病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという。 フリーダ事故により、アレハンドロとの仲は自然消滅のように破綻し、その孤独感フリーダ絵画へさらにのめり込ませる一因にもなった。1926年から1928年の間にフリーダ十数作品制作している。通常の生活が送れ程度回復した1928年フリーダ知識人芸術家集う活動サークル参加しメキシコ共産党入党する。 そこで写真家ティナ・モドッティ紹介画家ディエゴ・リベラ出会ったリベラの絵に感嘆したフリーダ闘病時代描いた自分作品見せリベラ意見求めたリベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすご表現力示されていた」と語っており、フリーダ感性大きな感銘受けた。 これを契機二人の仲は急速に接近し1929年8月21日フリーダ21歳年上リベラ結婚した年の差リベラ外見上の印象から、フリーダ両親からはあまり祝福されなかった。なお彼女は両性愛者であり、米国画家ジョージア・オキーフと関係があったとも言われている。 二人最初メキシコシティ中心部にあるアパート借りて住んでいたが、リベラコルテス宮殿英語版)の壁画作成仕事入ったため、同年クエルナバカ市へと移っている。 翌年11月リベラ今度カリフォルニア美術学校(現サンフランシスコ芸術大学)から壁画作成依頼があり、サンフランシスコへと居を移したその後仕事都合ニューヨークデトロイトなどを転々とした。 リベラこうした無節操な仕事選び方はメキシコ共産党反感を買い1929年党員資格剥奪された。この時、フリーダあわせて離党手続き行っている。 1930年フリーダ妊娠したが、事故の影響骨盤子宮損傷受けていたことから流産となった1932年1934年にも流産している。 これらの出来事は彼女に深い影を落としその後の作品大きな影響与えることとなった1933年12月メキシコ戻った二人は、知人建築家ファン・オゴールマン(英語版)に頼んでメキシコシティ南郊サン・アンヘルに家を建てて貰い、そこに落ち着くこととなった

※この「画家を目指す」の解説は、「フリーダ・カーロ」の解説の一部です。
「画家を目指す」を含む「フリーダ・カーロ」の記事については、「フリーダ・カーロ」の概要を参照ください。

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