画家・文人としての崋山とは? わかりやすく解説

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画家・文人としての崋山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 10:14 UTC 版)

渡辺崋山」の記事における「画家・文人としての崋山」の解説

華山年少の頃より生計支えるために画業志した最初大叔父平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山師事した付届けできないこと理由破門された。これを憐れんだ父は、藩主姻戚家来というつてを頼って金子金陵崋山弟子入り頼み受け入れられた(文化6年崋山17歳)。金陵崋山に眼をかけ、崋山画力向上したこのころ初午灯篭絵を描く内職を手がけた。崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年紀行文中の素描などに大きく役立ったであろうことがうかがえる。 さらに、金陵の師である谷文晁にも教え受けた文晁華山才能見抜き画技のみならず文人画家としての手本となった。師の文晁倣って南画のみならず様々な系統画派広く吸収した文人画は清の惲寿平強く影響されている。また肖像画陰影巧みに用いて高い写実表現成功している。西洋画影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法確立させた。当時から華山肖像画人気があり多く作品画いた代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られるこうした崋山写実性へのこだわりを示す逸話がある。1835年天保6年)、画家友達であった滝沢琴嶺(興継)が没し崋山葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴にその肖像画作成依頼された。当時肖像画当人没後描かれることが多く画家はしばし実際に実物を見ることなくやむを得ず死者思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆そうなる予定だった。ところが崋山はそれを受け入れず棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れたという。これらは当時価値観風習から大きく外れた行動であった。 元々崋山貧しさをしのぐ目的もあり画業始めたのだが、それが大きく開き、また画業習得する際に得た視野人脈は、崋山発想大きくするために得がたいものとなった代表作当時風俗写生した一掃百態図」など。また、文人として随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景髣髴させるとともに当時文化風俗を知る重要な資料となっている。 弟子椿椿山福田半香などが育った末弟の如山を椿山画塾入門させ将来を嘱望される画家としたが、僅か22歳夭折した

※この「画家・文人としての崋山」の解説は、「渡辺崋山」の解説の一部です。
「画家・文人としての崋山」を含む「渡辺崋山」の記事については、「渡辺崋山」の概要を参照ください。

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