溝口組
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溝口は気心の知れたスタッフや、同じ俳優を何度も作品に起用することが多く、彼らは「溝口組」と呼ばれた。溝口組の代表的な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)。 脚本:依田義賢(23本)、畑本秋一(20本)、川口松太郎(9本)、成沢昌茂(3本) 撮影:横田達之(27本)、三木滋人(16本)、宮川一夫(8本)、青島順一郎(7本)、杉山公平(6本) 美術:亀原嘉明(25本)、水谷浩(21本) その他スタッフ:坂根田鶴子(助監督・編集・記録、19本)、早坂文雄(音楽、8本)、甲斐庄楠音(考証、8本)、大谷巌(録音、7本)、岡本健一(照明、7本) 俳優:梅村蓉子、浦辺粂子(16本)、田中絹代、菅井一郎(15本)、進藤英太郎(12本)、中野英治、酒井米子(10本)、田中春男(9本)、夏川静江、清水将夫(8本)、入江たか子、山田五十鈴(7本)、沢村春子、河津清三郎、毛利菊枝(6本)、岡田嘉子、岡田時彦、山路ふみ子、柳永二郎、小沢栄太郎(5本) その中で溝口が最も信頼を置いた人物は、脚本家の依田義賢と美術監督の水谷浩である。溝口は2人を「僕の肉体の一部みないな」存在と呼び、「僕がああだとか、こうだとか、口に出して説明しなくても、僕の考えている通りにやってくれる」と述べている。とくに依田は『浪華悲歌』で初めて組んで以来、約20年にわたり溝口作品で脚本を書き、溝口の女房役のような存在となった。小学校時代の同級生である川口松太郎も溝口組の脚本家で、芝居作りのツボを心得ていることから溝口の良き助言者にもなり、溝口は壁にぶつかると川口に相談した。後期の作品では、撮影の宮川一夫、音楽の早坂文雄、照明の岡本健一、録音の大谷巌が信頼の置けるスタッフとなった。俳優では、『浪花女』で初めて起用した田中絹代が、それ以後の溝口作品に欠くことのできない演技者となった。溝口は田中に恋心を抱くほど気に入り、戦後には結婚の噂話が流れたこともあった。 溝口の弟子となった主な人物に、坂根田鶴子と新藤兼人がいる。坂根は『しかも彼等は行く』以来溝口に師事し、監督助手やスクリプターや編集についた。溝口作品で装飾を担当した荒川大によると、溝口は「坂根は俺の弟子であるだけでなく、脚本も直せる」存在だと言っていたという。坂根は1936年に『初姿』を監督して日本初の女性映画監督になったが、溝口はこの作品で監督補導にあたっている。新藤は『愛怨峡』『元禄忠臣蔵』で美術助手を務めて以来溝口に傾倒し、溝口にシナリオ執筆を師事した。この時の苦労は新藤の初監督作『愛妻物語』(1951年)で描かれ、溝口をモデルにした大監督(滝沢修演)も登場する。新藤は脚本家として一本立ちしたあと、溝口の『女性の勝利』『わが恋は燃えぬ』で脚本を提供し、監督になってからも「溝口が絶対に着想できない本を書こう」と意識しながら映画を作った。さらに新藤は1975年に溝口の関係者にインタビューした記録映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を製作した。
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