溝口との出逢い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 09:14 UTC 版)
「帝キネ」移籍第1作は、かつてマキノ入社第1作の監督であった曾根の『堀江六人斬 妻吉物語』で、曾根一派である杉狂児が主演している。同作は同年3月11日に公開された。「帝キネ」は同年「新興キネマ」に改組されるが、曾根とともに改組後の新興に残り、基本的に「曾根組」のキャメラマンとして活躍した。1932年(昭和7年)、川浪良太監督の杉狂児主演作『出征前』を担当、帝キネ・新興移籍後初めて、曾根以外の監督の作品のキャメラを回した。以降は、「曾根組」を基本に『恋と十手と巾着切』の広瀬五郎らのキャメラも回し、1933年(昭和8年)、溝口健二が新興で初めて監督した『祇園祭』の撮影を任された。 1935年(昭和10年)、永田雅一が興したトーキー映画を手がける「第一映画」に移籍、溝口の移籍第1作『折鶴お千』が三木の移籍第1作となった。以降、『マリヤのお雪』(1935年)、『虞美人草』(同)、『浪華悲歌』(1936年)、『祇園の姉妹』(同)と連続的に手がけ、「溝口組」に欠かせないキャメラマンとなる。1936年(昭和11年)末、ふたたび新興キネマ京都撮影所に戻る。翌1937年(昭和12年)、溝口が新興キネマ大泉撮影所(のちの東映東京撮影所)で『愛怨峡』を撮る際に、やはり三木が呼ばれ、キャメラを回した。 同作ののち、三木はしばらく新興京都で、仁科熊彦や野淵昶のキャメラを回していたが、1939年(昭和14年)4月1日に公開された森一生監督、市川右太衛門主演の『吉野勤王党』をもって「三木滋人」と改名した。改名第2作は、松竹京都撮影所での溝口監督が撮ることになった『残菊物語』であった。当時、新興キネマは松竹傘下であったので、溝口の指名によるスタッフィングが可能であった。1942年(昭和17年)1月の戦時統合による同社の大映への合併後も、大映に残り、森一生作品などを手がけた。
※この「溝口との出逢い」の解説は、「三木滋人」の解説の一部です。
「溝口との出逢い」を含む「三木滋人」の記事については、「三木滋人」の概要を参照ください。
- 溝口との出逢いのページへのリンク