明治・大正の南部鉄器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 18:07 UTC 版)
水沢、盛岡とも、仙台藩、盛岡藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声が高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の水沢、盛岡を経由していく東北本線開通と相まって、一気に販路拡大となった。 明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。 1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。
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