京都の西陣からの依頼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 19:56 UTC 版)
1971年(昭和46年)、京都の西陣織の関係者たちが、木内に帯の製作を依頼した。西陣では作ることのできない新たな感性を求めており、デザインは木内に一任、ただし西陣の真似はしないように、とのことであった。西陣といえば日本を代表する織物の一つであり、好きなデザインを好きなように織ることは木内が最も得意とすることであったため、木内は千載一遇の機会として、契約した。 半年後、木内は1本の帯を完成させて、西陣へ送った。しかし反応は「こんなものは雑巾にもならない」と、目を疑うような酷評であった。しかもどこをどう直せばよいかの助言もなかった。木内は「自分で考えなさい」というのが、西陣の流儀と解釈した。木内は諦めずに、何十という帯を送り続けたが、依然「横綱が締めるのか」「格調がない」「これは帯ではない」「下品」「暗い」「格調がない」「目付けが甘い」「重い」などの酷評が続いた。ついには銀行から何百万もの借金をして挑んだが、それも無駄に終わった。破産寸前にまで陥り、精も根も尽き果てた。木内は挫折し、今回の件を辞めることを手紙で申し出た。 木内からの申し出を受けて、それまで手紙のやりとりのみであった西陣の関係者たちが、旭川まで足を運んで木内のもとを訪れた。西陣側は、これまで厳しい批判を繰り返したのは、木内が望みのある人物であるからだと説き、「機織りの縦糸を整える筬を取り替えてみては」と初めてのヒントを出した。木内はこの助言で制作への姿勢を一変させ、再び製作に挑んだ。 3年後に完成させた帯は、ついに西陣から認められた。4年間にわたる試行錯誤と挫折の繰り返しは、木内の作品に一層の深みを与えることとなった。それまでは様々な小物を、織も素材も異なるものを作っており、試行錯誤といってもよい状態であったが、この西陣への挑戦により、木内は地風やデザインともに徹底的に鍛えられる機会を得た。また、木内はこの頃より、自分の織った物を「優しくなったね」「ちょっと陰気くさいかな」と、西陣のような言葉で評価できるようになった。
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