井上馨による条約交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 21:15 UTC 版)
当時の日本の軍事力・経済力では、清国との全面対決は回避すべき無理難題であることは、政府部内において一致する共通認識であった。1884年の暮れに軍艦3隻、2個大隊の陸軍兵を護衛につけて漢城(ソウル)入りした井上外務卿は、日本政府のクーデタへの関与を否定したうえで、日朝両国関係の速やかな修復が何よりも肝要であるとして、双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、「朝鮮国内で日本人が害されたこと」および「日本公使館が焼失したこと」という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案した。 交渉に参加したのは、日本側が井上全権大使、随員の井上毅参事院議官、朝鮮側が左議政(副首相相当)全権大臣金弘集、督弁統理交渉通商事務衙門趙秉鎬、同協弁パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフらであった。金弘集全権は最終的に井上の提案に同意し、1885年(明治18年)1月9日、朝鮮国王の謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担などを定めた漢城条約が締結された。 清国政府は、事件のしらせを受けると、宗主国として藩属国朝鮮の内乱を調査・処理する名目で北洋副大臣の呉大澂を漢城に派遣した。呉は随員40名、護衛兵250人を率いて1月1日に漢城入りし、日朝交渉を監視し、朝鮮政府に譲歩を説いたが、井上・金の両全権は日朝間の問題に清国が容喙することを拒んだ。撤兵問題に関して井上全権は、日清の二国間交渉に場を移すこととした。
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