井上馨の知己
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 03:25 UTC 版)
1878年(明治11年)、工部卿・井上馨に誘われて工部省に入省。井上馨の秘書官となる。井上が外務卿となると中上川も外務省に入り、従六位に叙せられ太政官少書記官となり、中野健明の後を次いで公信局長となる。1880年(明治13年)に、外務省太政官権大書記官に昇進、従五位に進む。井上の下で条約改正案の作成にあたる。同時期に、慶應義塾で同窓であった小松原英太郎が外務省権少書記官に居た。 この頃、伊藤博文から要請を受けた官制新聞『公布日誌』発刊の計画の打診について、福澤諭吉の代わりに断りの打診を告げる。明治十四年の政変による失脚という政変に伴い、外務省を辞す。後に福澤の勧めで時事新報社社長となる。
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