計画の打診
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 10:04 UTC 版)
1903年、当時の植民地相であったジョゼフ・チェンバレンがテオドール・ヘルツルらのシオニズム運動グループにアフリカでの母国建設を打診した。当時、ロシア帝国ではユダヤ人に対してポグロムが起こっていたが、チェンバレンは弾圧から逃れたユダヤ人のための行き場として今日のケニアにあるマウ高原の5,000平方マイル(約13,000平方キロメートル)の土地の提供をもちかけている。 この打診は1903年にバーゼルで開催された第6回シオニスト会議の議題に上り、激しい議論が起こった。このころ、イスラエルの地であるパレスチナへのユダヤ人入植は着々と進んでいたが、オスマン帝国の領内に独自のユダヤ人国家を築くという目標は行き詰まりを見せていた。アフリカの高原への入植を支持する者は、これをイスラエルの地への入植という最終目標に先立つ応急措置として「聖地への前室」(ante-chamber to the Holy Land)や「夜をしのぐための場所」(Nachtasyl)などと呼んだ。一方、この打診を受け入れてしまうと今後パレスチナへのユダヤ人国家建設が困難になってしまうと考え、強硬に反対する者もいた。採決の直前にロシアからの代表が抗議のため退出してしまう一幕もあったが、動議は295票のうち177票の賛成で可決された。
※この「計画の打診」の解説は、「英領ウガンダ計画」の解説の一部です。
「計画の打診」を含む「英領ウガンダ計画」の記事については、「英領ウガンダ計画」の概要を参照ください。
- 計画の打診のページへのリンク