計画の成立まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 09:20 UTC 版)
飛騨川は流域の大部分を中山七里や飛水峡に代表されるような険阻な峡谷を形成し、かつ飛騨山脈や木曽山脈の豪雪地帯を抱えていることで流量も豊富であった。こうした河川は水力発電を行うには極めて有利で、大正時代には富国強兵の原動力としての水力発電計画の有力地点として注目されていた。 1919年(大正8年)、関西方面の電力会社が大合同して日本電力が発足。飛騨川上流部の電源開発事業に着手したがその三年後1922年(大正11年)、松永安左エ門を中心として東邦電力が東海地方の電力会社を糾合して発足、岐阜電力を吸収して飛騨川中流部・下流部の電力開発に乗り出した。その後両社は協議を重ねながらそれぞれの計画に影響を及ぼさない範囲内で水力発電開発を進め、瀬戸・名倉・七宗・上麻生などの水力発電所を建設し上麻生ダム・大船渡ダム・下原ダム・西村ダムなどの発電専用ダムが完成していった。 ところが昭和に入り満州事変勃発を契機に電力の国家管理が叫ばれ、同時に物部長穂(東京帝国大学教授・内務省土木試験所長)が唱えた河水統制計画が内務省の河川開発計画の根幹に据えられ、治水・利水を一貫して開発するには国家が河川開発を掌握した方が戦時体制遂行の上で得策であると軍部や内務・逓信官僚によって強権的に推進された。その結果1939年(昭和14年)に電力管理法・日本発送電株式会社法が第73帝国議会で可決・成立し、同年監督官庁としての電気庁とトラストとしての日本発送電株式会社が誕生。飛騨川筋における全ての発電施設はその既設・未設を問わず一つの例外も無く接収された。 日本発送電は「昭和14年度電力長期計画」に沿って水力発電の新規開発出力を185万キロワットと定め、これを達成するために大規模なダム式発電所を全国各地に建設する計画を立てた。木曽川水系では三浦ダム(王滝川)や丸山ダム・兼山ダム(木曽川)がこれに基づき計画されたが、飛騨川筋でも大野郡朝日村(現在の高山市)寺附地点に大規模なダム式発電所を建設する計画を立てた。これが朝日ダムの原型であり、1942年(昭和17年)より調査が開始された。ところがこの年より太平洋戦争の戦局が悪化の一途をたどり、1944年(昭和19年)8月には「決戦非常措置要領」が発令されて全ての資材・資源が戦争遂行に動員されることになったため、朝日ダムの計画は一旦中断を余儀無くされた。
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